千利休は豊臣秀吉の側近で
わび茶の完成者として知られているなー
利休は多くの大名へ影響力をもっており
秀吉殿から切腹を命じられてしもうたのー
なぜ千利休が切腹を命じられたのかをみていこう!
千利休の年表
利休が若い頃から茶の湯の名人の弟子となっているところをみると
もともと実力があったんだろうな
親族を亡くした悲しみに耐えながらも
茶の湯を学んだんじゃ
千利休の誕生
千利休(宗易)は1522年に大坂堺の商人の子として生まれました。家業は魚の塩漬けを行う魚問屋で、貸し倉庫業も営んでいたといわれています。17歳のとき、商人としての教養を身につけるため北向道陳や武野紹鴎に弟子入りし、茶の湯を始めました。
23歳で始めて茶会を開いて、成功させているよ
織田政権
利休の生まれた堺は大名や豪族に支配されることなく、商人たちが自治を行う町でした。また海外との貿易も盛んであり、鋳物の産地でもあったため、鉄砲が大量に製造されていた町でもありました。そのため、堺の商人たちは最先端の武器を全国の大名相手に商売し、財を蓄えていました。
堺は商人の町で、力をもった豪商が多くいたんじゃ
将軍を上洛させることに成功していた織田信長は、堺を占領しようと画策。そして、三好三人衆などを蹴散らし、堺を鉄砲の供給地とします。また、信長は堺とのつながりを強固なものとするため、堺の茶人であった今井宗久や津田宗及、千利休を茶頭(茶堂)として重用しました。
また、利休たちは信長が集めた茶道具を目利きしたり、織田家臣にも茶の湯を推奨したりしました。そのため、織田家の家臣は武功の褒美として高価な茶器を賜っています。
戦の褒美としての領地があまりなくなってきたから
代わりに茶器を与え始めたという説もあるよ
豊臣政権
利休は茶の湯を通して信長から一目置かれる存在となっていましたが、本能寺の変が勃発してしまいます。このとき本能寺では大規模な茶会が開かれていたため、多くの茶器もともに消失してしまいました。
本能寺の変は信長が京都の公家や僧と開いた茶会だからなー
信長に代わって天下人となった豊臣秀吉は茶の湯を政治の道具として扱うようになります。これまで三人いた茶頭を利休一人として重用。大坂城に黄金の茶室を設計させたり、北野大茶会を開催させたりしました。
秀吉殿が築城した聚楽第の近くに利休の屋敷が作られて
3000石も与えられておったぞ
信長に仕えていた頃と同じく、秀吉に仕えてからも、ただ茶を点てて武将たちに提供することが仕事ではありませんでした。秀吉のために、茶道具を目利きして付加価値をつける役割を担いました。その過程で利休は自身の美学を磨きあげ、わび茶を大成させます。
わびの美とは「不足の美」、「完璧でないものに見出される美」で
目に見えないものや主張しないものを感じ取って、本当に美しいものは何かを突き詰めてゆく美学だな
また、茶室の狭い狭い空間は武将たちに適度な緊張感、リラックスした親密な空気感を与える場でもありました。そのため武将たちの商談や重要な密談の場となってゆきます。利休は秀吉や武将たちから個人的に相談を受けることが多くなり、たくさんの機密情報を抱えるようになってゆきます。
「内々のことは宗易(千利休)に、公儀のことは宰相(豊臣秀長)に」
といわれるほどの実力者だったんじゃ
天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は小田原征伐を開始。この頃、利休の愛弟子・山上宗二が秀吉の茶の湯を批判し、北条家に身を寄せていたことから、鼻と耳を削がれて斬首されていました。さらに秀吉は堺へ増税や堀の埋め立て、貿易の利益を独占しようとしました。このことに不信感を抱いた利休は、公然と秀吉に対して苦言を呈するようになり、2人の関係は急激に悪化してしまいます。
秀吉と利休の2人で茶の湯文化を築き上げたのに
また、秀吉は明(中国)を征服するために朝鮮出兵を企んでいました。ところが、弟の豊臣秀長や利休に反対され、踏み出せずにいました。ところが、弟・秀長が亡くなったことで秀吉のブレーカーはなくなってしまいます。利休は朝鮮出兵を阻止すべく徳川家康と茶会を開いていましたが、これを秀吉に不信がられ蟄居を命じられてしまいます。そして、秀吉は利休に言いがかりをつけて切腹を申し付けました。
利休の首は一条戻橋で晒し首となったよ
まとめ
千利休は織田信長と豊臣秀吉の天下人に見いだされ、商人の生まれでありながら大出世を果たした大名。しかし、多くの武将の機密情報をもっていたことや、秀吉と反りが合わなくなったため切腹させられてしまいました。
利休が切腹させられた理由は未だにはっきりとしていなくて、次のような説があるよ
秀吉が堺の利益を独占しようとしたことを利休が守ろうとした説
利休が徳川家康と内通していた説
秀吉と茶道に対する意見が合わなかった説
利休が安価な茶器を高額で売り私服を肥やしていた説
秀吉の側近の立場が危ぶまれた石田三成告げ口した説
などがあるよ
利休殿を助けるために、弟子の細川忠興や古田織部が奔走したんじゃが
秀吉殿の意思はかたくて、撤回できなかったんじゃ
利休は
「今助かっても、どうせそのうちに難癖を付けられて再び切腹を申し付けられるだろうから、今の内に切腹したほうが潔い」
と考えていたからだというよ