徳川家康は江戸幕府を開いた創始者で
徳川家は250年間も日本を支配し続けたよね
そうなんじゃ、15代目の徳川慶喜まで将軍として続いたが
その後も徳川家は存続していたんじゃよ
今回は徳川家康の子孫がいま現在
どうなっているのかを見てみましょう!
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜
徳川最後の将軍といえば、徳川慶喜。慶喜は在任中に一度も江戸城に入城したことなく、水戸(茨城県)生まれの異色の将軍であった。慶喜が江戸城を無血開城したことで、徳川宗家は断絶されることなく、存続を許された。将軍退任後は各地で過ごし、明治天皇よりも長生きして大正時代まで存命していた。
慶喜は「ケイキ」といわれて人々から親しまれていたそうじゃ
大正時代まで生きていたから
徳川慶喜を生で見たことある人もいるみたいですね
徳川16代目
徳川16代目は徳川家達である。慶喜の隠居後、徳川御三卿の一つの田安徳川家から養子となり、静岡藩70万石の領地を与えられた。その後、静岡県の知事となる。
廃藩置県により職を失うと、イギリスに留学し、公爵の位を授かった。そして、日本の近代化に伴い帝国議会が設立されると、貴族院議員となり、31年間も貴族院議長の職についた。
徳川慶喜の実の子ではなく養子じゃな
徳川17代目
徳川家正は16代目の家達の長男。東京帝国大学(東京大学)を卒業後に外交官として活躍した。公爵を授けられてからは貴族院議員となり、貴族院議長に就任してからは、貴族院が廃止されるまでその職にあった。
徳川家康の子孫は貴族院議員となって
一定の地位を築いたんですね
徳川18代目
徳川宗家18代当主の徳川恒孝は、1940年会津松平家の一門に生まれ、徳川宗家の養子となる。17代目家正が死去したため、第18代当主として家督を継いだ。
恒孝は日本郵船株式会社に入社し、以後当主としての務めと会社員としての職務を両立させる生活となった。日本郵船勤務時代には加賀前田家18代当主の前田利祐と同じ部署であった。その当時の上司は怒鳴ることで有名だった人物で、「前田!徳川!ちょっと来い!などと呼びつけたのは太閤以来俺だけだ」と言ったという。
前田利家の子孫もしっかり存命していたんですね
徳川家次期当主
徳川恒孝は健在だが、長男の徳川家広が次期当主となることが決定している。徳川家広は1965年東京に生まれ、学習院高等部を経て慶応義塾大学経済学部に進学。卒業後は、ミシガン大学で経済学修士号を、コロンビア大学で政治学修士号を取得。
現在は執筆活動や翻訳を行い、徳川宗家次期当主としての活動もおこなっており、その活動領域は文化活動やプロデュース活動にまで及んでいる。
徳川当主として
石田三成や小早川秀秋の子孫と対談していたのはおもしろいですね
まとめ
徳川家康の血は脈々と受け継がれていった。それほど、徳川家康は自身の子孫を残すことを必死だったことがわかる。その証拠に、家康の子は養子も合わせて38人もいたという。
江戸時代が250年以上も続いたのは
やはり、初代の徳川家康による功績じゃな
源頼朝や足利尊氏の子孫は現在いないそうですね、、、