江戸時代には外様は次々と減封や改易の憂き目に晒されたのに
前田家はしっかりと加賀100万石を守ったよね
一体どうしてなんだろう?
前田家は外様にも関わらず大きな力を有しておったから
幕府から相当睨まれていただろうしのー
今回は前田家が加賀100万石を守れた謎に迫っていきましょう!
加賀100万石だが幕府に恭順していたから
江戸時代には様々な理由で大名たちは改易や減封された。ところが、幕府にとってはルールに則って行われたものであった。
豊臣恩顧の福島家は加藤家は改易されたが、これらは幕府の決めたルールに沿って処分されてしまった。しかし、前田家は幕府の決めた規則に反しないように細かい点まで配慮したのだろう。
前田家は相当神経をすり減らしていたでしょうね
前田家が徳川と縁戚関係にあったから
前田家は関ヶ原の戦い以降に従順した外様ではあるが、3代目当主の前田利常は徳川秀忠の娘を正室に迎え入れている。また、他にも徳川家と縁戚関係を築いていた。
婚姻関係を結んでおり、なにも問題を起こさなかったため、徳川幕府は次第に前田家を信用するようになったのだろう。
前田は徳川と縁戚関係だったから
親藩並みの扱いを受けたそうじゃ
加賀100万石の立地がよかったから
前田家は加賀(石川県)に本拠地を構えていた。江戸から地理的距離があり、豪雪地帯であるという特徴がある。加賀は冬になると雪が降り、行軍が難しい。そのため、戦国武将の柴田勝家は雪の影響で豊臣秀吉に敗北した過去もあった。
つまり、徳川にとって加賀は地理的、気候的に支配しやすかったのではないだろうか?
それに、船からのルートも行きずらいもんね
加賀100万石の前田家が格式高い家だったから
徳川は多くの大名を改易しているが、格式の高い家には処分を下していない。そして、前田家は格式の高い家として有名であった。
加賀前田の祖はあの前田利家。利家の息子・利長の正室は織田信長の娘であった。前田利家は人望もあり、徳川家康に匹敵するほどの戦力を有していたともいわれる。
また、利家の娘は浅野や細川に嫁いでいた。徳川にとって前田に何かがあったとき、浅野や細川が黙っていないと考えたのかもしれない。
利家とまつの間にはたくさんの子宝に恵まれたんじゃ
加賀100万石にも存亡の危機は訪れていた
1631年、前田家3代目当主・利常の時代に本拠地・金沢城が大火によって消失してしまった。そこで前田家は改修工事を幕府に無断で行った。これは武家諸法度に禁じられている行為である。さらに、船舶の購入や大坂の陣で武功を挙げたものに論功を行ったりもした。そのせいで、幕府側から謀反の疑いをかけられた。
金沢城といえば
高山右近が日本ではじめてクリスマスパーティーを行った城ですね
福島正則は城の無断改修から処分されてしもうたの
利常は息子の光高とともに江戸まで弁明に向かったが、徳川家光は取り合わなかった。重臣が弁明したためことなきを得たが、この件以降、前田家はより慎重に行動するようになった。
前田家じゃなかったら
改易の処分を受けていただろうな
まとめ
江戸時代に100万石を誇る大名は前田家ただ一つであった。そうであるにも関わらず、前田家が加賀百万石を守りきれたのは運ではなく、幕府に相当気を遣い、恭順したため幕末まで迎えることができたのではないだろうか?ところが、幕末では国内をまとめきれず、大きな力を発揮することができなかった。
百万石もあったから加賀では文化が発展したんじゃ
今でも、金沢は「小京都」といわれる町並みを残していますね