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[衝撃]豊臣秀頼の父親は秀吉ではなく〇〇だった!?

戦国小話
ひろ
ひろ

豊臣秀頼の父親は豊臣秀吉ではないという噂が広まっているなー

徳川家康
徳川家康

秀吉殿は小柄なのに、秀頼君は大柄で

わしは二条城で会見したとき、デカくてびっくりしたわい

ひろ
ひろ

秀吉は猿とかゆわれてるのに

今回は「豊臣秀頼の父親は本当に豊臣秀吉なのか」を検証していくよ

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秀頼の父親が秀吉ではないといわれるわけ

天下人・豊臣秀吉は稀代の女好き。そのため正室のねねのほかに多く側室を抱えていました。

徳川家康
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秀吉殿の女好きにはねね殿も困っておったぞ

たくさんの側室をかかえておきながら、豊臣秀吉には1人も子どもができませんでした。ところが、浅井長政の妻で織田信長の妹・お市が残した娘・淀殿との間に子ども鶴松をもうけます。ところが、わずか3歳で鶴松は亡くなってしまいました。

鶴松が亡くなった2年後、秀頼が生まれます。ところが既に56歳の秀吉にこうも立て続けに子どもができるのかと世間はざわついたそうです。

ひろ
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秀吉の住む聚楽第じゅらくだいの壁に「鶴松殿は誰の子?」という落書きがあったみたい

これに怒った秀吉は犯人やその親族、さらに聚楽第の警備員までも処刑したというよ

聚楽第。豊臣秀吉が京都に築いた屋敷。(聚楽第図屏風)

秀頼の父親といわれている人物

秀頼の父親として噂されてきたのが、石田三成片桐且元大野治長です。

  • 石田三成は関ヶ原の戦いで西軍を率いた武将。
  • 片桐且元は賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、加藤清正などともに七本槍の一人にあげられる人物。
  • 大野治長は豊臣家に仕える重臣。

この3人が噂されますが、秀頼の誕生日から逆算して淀殿が秀頼を身ごもったと考えられる頃に、石田三成と片桐且元にはアリバイがあります。というのも、2人とも秀吉の命で朝鮮へ出陣していたからです。

つまり三成と且元は物理的に淀殿と密通するのは不可能。アリバイのない大野治長が浮上したわけです。

ひろ
ひろ

でもなー

大野治長に関する歴史資料があまりないんだよなー

淀殿。絶世の美女といわれたお市の娘。
(奈良県立美術館所蔵)

大野治長が父親として有力なわけ

大野治長とは?

ひろ
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噂を検証する前に大野治長がどんな人物かみていこう

大野治長は丹後(京都府)に誕生。母は大蔵卿局おおくらきょうのつぼねといい、治長と同い年であった淀殿の乳母を勤めました。つまり治長と淀殿は幼い頃から一緒に育った幼馴染

その後治長は秀吉の馬廻衆として3千石で取り立てられています。そして淀殿が鶴松を産んだ頃、治長は秀吉から1万石の大名へと出世を果たしました。

最期は治長は豊臣家の家臣として大坂の陣に参戦し、秀頼と淀殿とともに果てています。

ひろ
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馬廻衆とは主君の周囲を警護するエリート集団やで

徳川家康
徳川家康

これといった功績を挙げていない治長が出世しているのは

淀殿大蔵卿局が裏で秀吉殿にお願いしていたとしか思えんな

疑惑その1 矛盾する身長

豊臣秀吉織田信長などからと言われる小柄な男性で有名。おそらくその身長は150センチくらいといわれています。ところが、秀頼は身長190センチで体重が160キロとかなりの大柄180センチある大柄な浅井長政の血をひいてる淀殿も少し大きめの体格であったとはいえなかなかの違い。

また大野治長は高身長な人物だったといわれており、怪しさが増します。

ひろ
ひろ

毛利家の資料には秀吉が亡くなった一年後くらいに

淀殿と治長の密通がバレて騒動が起きたというよ

疑惑その2 最期まで秀頼と淀殿の側に

大野治長は豊臣方の武将として最期まで大坂の陣で戦いました。そして、秀頼の妻で家康の孫娘である千姫に嘆願書を託して大坂城から脱出させます。

この嘆願書には「この合戦の責任はすべてわたし(大野治長)にあり、私の切腹を条件に秀頼公と淀殿の助命を求む。」ところがその願いは叶わず、治長は最期まで秀頼、淀殿の側にいて、大坂城でなくなりました。

ひろ
ひろ

秀頼と治長が親子なら最期まで一緒にいるのは当然だよなー

大野治長。家康襲撃計画を企て
罪に問われた。
(大坂夏の陣図屏風)

まとめ

豊臣秀頼の実の父親は秀吉ではないという説について検証しました。当時からこの噂はささやかれていましたが、真相はすでに闇の中です。

正直わたしは秀頼は秀吉の子ではないと考えています。淀殿治長の関係性から噂とは言い切れないのではないでしょうか?

徳川家康
徳川家康

淀殿と治長は幼馴染だから恋仲に落ちるのはありえるな

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