ねね(北政所)は豊臣秀吉の正室で、秀吉がまだ織田信長の家来であったころから夫・秀吉を献身的支えました。
また秀吉との間に子どもがいなかったため、石田三成、加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の武将を幼少の頃から可愛がり、これらの武将もねねを育ての親のように慕っていました。
そのため豊臣政権下では大きな発言力をもち、関ヶ原の戦いの際にねねが徳川家康に味方したことは多くの武将に影響を与えました。その後も大坂の陣で豊臣秀頼に対して、家康の要求を受け入れるように説得したりと政治に影響を与えています。
ねねはわしと二人三脚で豊臣家を大きくしていったんじゃ
そんなねねの逸話を見てみよう!!
ある時、ねねは夫秀吉の女遊びに困り果て主君・織田信長に手紙を送ったと言います。すると信長から次のような返事がかえってきました。
「この前久しぶりに会ったがあなた(ねね)はいっそう美しさを増している。藤吉郎(秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい」
と
かなり紳士的な内容で、女性が読みやすいようにひらがなで書いてあります。さらに公的文書を表す「天下布武」の朱印が押されてあり、信長がかなり気を遣って、丁寧にこの手紙を書いたことがわかります。
これにはわしも驚いたわい
信長公の命令は私生活であっても絶対じゃからな
信長にも女性を気遣う優しい一面があるんやなー
またねねは徳川家康とも関係はよく、さらにその息子・徳川秀忠とはかなり親密な関係でした。
秀忠は幼少の頃に秀吉のもとで人質生活をしていました。その際、ねねは「髪の毛の結い方」、「装束の着方」を秀忠に教えるなど面倒を見ていました。
そのため、秀忠は京都に上洛する際には、必ずねねのもとに訪れていました。さらに家康の死後、秀忠はねねに1万6千石もの報酬を与えたといいます。
ちなみに秀忠は天皇には3千石しか与えてないから
親密性がわかるよなー
信長公の妹のお市さんは美女でお姫様じゃが、
ねねはおふくろさん的な包容力のある女性じゃった