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三段撃ちといえば、
織田信長が長篠の戦いで大量の鉄砲を用いて武田軍を圧倒した戦法やな
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戦国最強といわれた武田騎馬隊を大量の鉄砲で打ちのめしたんじゃ
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ところが「この三段撃ちがなかったんじゃないか?」といわれている
その真相を探っていこう!
長篠の戦いとは?
長篠の戦いは1575年、織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼が起こした合戦です。この戦いで信長は最新の武器である火縄銃を大量に用いて、武田軍を圧倒し勝利したといわれています。信長が新たな戦い方の道を切り拓いた合戦でした。
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武田騎馬隊も創作といわれているけどどうなんだろうなー
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(徳川美術館蔵)
鉄砲の数は?
通説では、信長が合戦に用意した鉄砲の数は3000挺。そして馬防柵の内側に3000人を3隊にわけて配置し、それを3段構えで隊列を整え、1段1000挺ずつ交替で打ち続けました。そのため武田軍に間断なく鉄砲を浴びせ続けて、武田騎馬隊を壊滅させたといわれています。
ところが、1000人が一斉に射撃することは難しいでしょうし、それを三隊が連携して、連続で発泡していくのは不可能に近いとおもいます。
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合戦での緊張感では、冷静に玉をこめるのも難しいだろうし
鉄砲隊の足軽もみんな同じ鉄砲の腕前ではないだろうしなー
![豊臣秀吉](https://www.bushoolife.com/wp-content/uploads/2021/04/nigaoe_toyotomi_hideyoshi.png)
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実は武田軍も500挺ほどの鉄砲を用意して、合戦に参加していたんじゃ
また、火縄銃の殺傷能力はそれほど高くなく、射程範囲も50m-100mといわれています。
そのため信長が鉄砲を用いたのは、一斉掃射による轟音で武田軍の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れることがねらいであったといわれています。
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馬防柵はなぜ残っている?
戦場において敵軍の進軍を防ぐために用いた馬防柵。織田徳川連合軍は合戦に備えて、約2 kmにわたって馬防柵を二重にも三重にも設置しました。
定説では馬防柵を設置することで、織田軍が守りに入っていると見せかけて敵の進軍を誘い込み、突っ込んできた武田軍を一気に鉄砲で撃ち込んだといわれています。
しかし、三段撃ちが創作であれば馬防柵を設置する必要がありません。さらに武田騎馬隊も存在しなかったとするならなおさらです。
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三段撃ちの話ができたわけとは?
織田信長に関する歴史資料は「信長公記」が有名。もちろん、これにも長篠の戦いの様子は記録されていますが、三段撃ちについての内容は記録されておりません。
ところが、江戸時代初期に書かれた「信長記」では三段撃ちの様子が記されています。これは儒学者である小瀬甫庵が信長公記を参照しながら書いたといわれています。
つまり、信長記は2次資料であり、人々の読み物として親しまれていたため信用に欠けます。
また明治時代に陸軍が「三段撃ち」を教科書に史実として記載したことで、一気に広まったといわれています。
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信長記には誤りが多いみたいやで
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(陽明文庫所蔵)
まとめ
長篠の戦いで大量の火縄銃が用いられてことは間違いありません。
しかし、三段撃ちという高度な戦法を用いて合戦に挑むことは不可能でしょう。さらに信憑性の高い資料にも三段撃ちの記述がないことから、この戦法は用いられていなかったといえます。
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長篠の戦い以降、武田軍は急速に衰えていくぞ
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(落合左平次道次背旗)
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