大村純忠は日本最初のキリシタン大名として有名な武将やな
それに長崎港を開港したり
甥を使節団の一員としてローマへ派遣したりしたんじゃ
領土を拡大していく大名とは一風かわった武将だよなー
それでは大村純忠の生涯をみていこう!
大村純忠の年表
純忠はキリスト教への信仰心が強いなー
ポルトガルと貿易を続けるにはキリシタンを増やす必要があったんじゃろな
大村純忠の相関図
九州の有力武将に囲まれながら領土を保ち続けたのはすごいなー
南蛮貿易で相当利益を得ていたから、領土を守れたんじゃろな
大村純忠の誕生
大村純忠は1533年、肥前(佐賀県)に有馬晴純の次男に生まれました。母が大村家の出身であったことから大村家の養子となり、跡取り候補であった大村貴明を追い出して大村家の当主となります。
大村貴明を追い出したことを純忠はずっと気にしていたらしいよ
日本最初のキリシタン大名
1561年、平戸(長崎県)で商売に来ていたポルトガル人と武士の間で暴動を勃発。これ以降ポルトガル人は平戸で貿易するのをやめ、大村領内の横瀬浦で貿易を始めました。
この願ってもないチャンスに純忠はキリスト教に入信し、洗礼名をドンバルトロウとします。
このとき日本で最初のキリシタン大名が誕生したんじゃな
最初こそ純忠は「キリスト教に入信さえしていればポルトガルと貿易でき、莫大な利益を得られる」という考えでキリスト教を信仰していました。
ところが日に日に、キリスト教への信仰を強め、毎日祈りを捧げる熱心なキリシタンとなります。さらに純忠は領民にキリスト教を信仰するように励行し、領民の6万人が入信したいいます。
純忠は寺社仏閣を破壊して、入信しない領民は無理矢理改宗させるか
ポルトガルに売っ払って奴隷としたんじゃ
本当に恐ろしいやつじゃ
キリスト教を信仰しすぎて、、、
キリスト教を熱心に広めてくれる純忠をポルトガルの宣教師たちは大いに喜び、期待していました。
しかし、大村家を追い出された大村貴明はキリスト教に反対する勢力を集めて純忠の館を襲撃。純忠はポルトガル商人たちと協力してこれに応戦します。
さらに、肥前の大名龍造寺隆信が大村領へ侵攻したため、純忠は仕方なく龍造寺家の配下となってしまいした。
ところが龍造寺家の配下となっても、キリスト教への信仰心を忘れずし、イエズス会に長崎港をプレゼントし、隣国の大友宗麟と協力し甥のミゲルらをローマに派遣しました。
これを天正遣欧少年使節というで
純忠は龍造寺家のもとで働いていましたが、主君隆信が沖田畷の戦いで島津家に討たれると、純忠は独立に成功。そして力をつけた秀吉が九州征伐に乗り出すと、純忠は秀吉に味方して島津家を追い詰めます。
ところが、純忠は合戦の途中、肺結核で亡くなってしまいました。
純忠が亡くなった数ヶ月後にわしはバテレン追放令を出したんじゃ、
純忠が生きていたら追放していたじゃろなー
まとめ
大村純忠は日本ではじめてキリシタン大名となって、ポルトガルとの貿易で莫大な富を得た武将。ところが、キリスト教布教のためにたくさんの犠牲者を出しました。
そんな恐怖政治を敷いた純忠にこんな話が残っています。
純忠が死ぬ間際に飼っていた小鳥をカゴから優しく放ってやったといいます。
キリスト教に入信しない人々を次々に殺害した純忠の戦国武将らしからぬナイーブな一面でした。
戦国武将らしくない優しい心も持っていたんやなー