秀吉さんに仕えた武将、福島正則はとても酒癖が悪いというよな
酒癖の悪い正則には様々なエピソードがあるぞ
今回は福島正則が酒を飲んでやらかしてしまったことを見てみよう!
福島正則とは?
福島正則は豊臣秀吉の親戚であり、幼い頃から秀吉に仕えた武将。正則は合戦で活躍することで秀吉から認められ、なかでも賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられるほど首級をあげました。
豊臣秀吉がなくなると、石田三成と対立が激化したため、徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍の武将として宇喜多秀家と激戦を繰り広げました。合戦後は家康から広島藩50万石を与えられるも、徳川秀忠の逆鱗に触れ僻地へ左遷されてしまいました。
豊臣家を裏切って東軍についていたけど
本当は豊臣想いの武将だったから徳川家に危険がられたんだろうなー
家宝を盗まれた!?
ある時、黒田長政は家臣母里友信を正則のもとへ遣いにだしました。お酒が大好きな正則はさっそく友信にお酒を勧めてきます。はじめ友信は使者に来ているという理由で断りました。
ところが、正則は
「飲み干せたら好きな褒美をやる」
といって酒を勧め、
さらに
「黒田の武士は酒に弱く、酔えば役に立たない」
と罵倒。
これに腹を立てた友信は一気に酒を飲み干し、褒美として正則から槍をもらいました。
この槍は「日本号」といい、正則が秀吉から賜った福島家の家宝。そのため翌日酔いが覚めると、正則は慌てて槍の返却を求めますが、友信はこれを拒否したといいます。
このエピソードから
「酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、呑み取るほどに呑むならば、これぞまことの黒田武士」
という歌ができたというよ
酔った勢いで家臣に切腹を命じる!?
正則たちは江戸から広島へ船で帰っていました。また福島家では身分が低い人間は木綿に着替えることになっていました。
船に乗っているときは木綿を着て
広島に着いたら着物に着替えるというルールがあったみたい
船中ではいつも正則は家臣たちと宴を開いて、またも泥酔。そして泥酔していた正則は家臣たちがまだ着物に着替えていないことをみて激怒。家臣の柘植強右衛門を呼び出して叱りつけました。
すると清右衛門は
「まだ着替えの命令を受けてません」
というと
正則の怒りはとまらず、
「切腹しろ! 貴様の首を見るまで船を降りない」
と暴言を吐き、再び寝床に入りました。
そして翌朝、正則は目覚め、何事もなかったかのように清右衛門を呼びつけます。
しかし、清右衛門は正則の命令に従って切腹しており、首だけが残っていました。正則はその首をみると大声で泣いて後悔したといいます。
正則は生涯後悔したというよ
酒で広がる正則の友情の輪
酒好きの正則は領地である広島で酒作りを推進していました。
ある日、徳川将軍に地酒を献上するための船が悪天候により八丈島に漂流してしまいます。八丈島に降り立った正則の家臣たちはある老人と遭遇。そしてその老人は「広島の酒が欲しい」と言ってきました。
よくよく聞くとその老人は正則と関ヶ原の戦いで激戦を繰り広げた宇喜多秀家。秀家は関ヶ原の戦い後、八丈島へ島流しにあっていました。
秀家の境遇を不憫に思った正則の家臣たちは秀家に酒をわけて、再び江戸に向けて出航。これを聞いた正則は家臣たちを褒め称え、何度か秀家に酒を届けたといいます。
正則と秀家は豊臣政権下で関係が深かったから、
関ヶ原の戦いで豊臣を裏切ったことを正則は気にしていたんやろうなー
正則は情にあついやつなんじゃよ
まとめ
福島正則は酒を飲みすぎると、冷静さをかける人物でした。そのため常に冷静であった石田三成とは反りが合わず、対立してしまったのでしょう。
いつの時代もお酒はほどほどにしないとなー