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[大河ドラマ・どうする家康]穴山梅雪・穴山信君(田辺誠一)はなぜ徳川家康に従ったのか?伊賀越えの結末は? 子孫・年表・相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康にも登場する

穴山梅雪・穴山信君田辺誠一さんが演じていますね!

徳川家康
徳川家康

穴山梅雪は武田信玄蜜月の関係にあったが

武田が追い詰められると裏切って徳川に味方したんじゃよ

ひろ
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穴山梅雪が「不忠者」と言われる所以ですね

どうして穴山梅雪は裏切ってしまったのでしょうか?

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穴山梅雪(穴山信君)の年表

穴山梅雪(穴山信君)の相関図

穴山梅雪(穴山信君)の誕生

穴山梅雪・穴山信君(田辺誠一)は1541年、甲斐(山梨県)に穴山信友の長男として誕生しました。穴山梅雪の先祖と武田信玄(阿部寛)の先祖が一致するほど、穴山家は主君の武田家との結びつきが非常に強いものです。そのため、穴山家は「武田姓」を名乗ることを許されています。

穴山梅雪も武田家と関係が深く、穴山梅雪の母は武田信玄の姉の南松院であり、穴山梅雪の正室は武田信玄の娘の見性院です。

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穴山梅雪は武田宗家に最も近い身分にいる重臣ですね

穴山梅雪(穴山信君)は武田一門衆の筆頭

穴山梅雪は1553年頃から武田家の人質として過ごし、1558年に父・穴山信友が出家すると家督を相続しました。穴山家は甲斐と駿河(静岡県)との国境付近の河内地方を任せられていたために、穴山梅雪は今川家との交渉役や情報収集役として活躍しました。

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河内地方では金山が多くある重要な地域で

穴山梅雪が武田信玄から信頼されていたことがわかりますね

1561年には武田信玄上杉謙信との戦で最も激戦となった第四次川中島の戦いでは武田本陣を守る役割を任せられています。その後、武田家中で武田信玄が長男の武田義信を自害に追い込む事件が勃発。(今川義元(野村萬斎)が亡くなったため、武田と今川の同盟を破棄したい武田信玄派閥と今川義元の娘を正室としているため今川との同盟を続けたい武田義信派閥との対立。)穴山梅雪は武田信玄に味方しましたが、弟の穴山信嘉は武田義信についたために自害しています。

徳川家康
徳川家康

義信事件で穴山梅雪は兄弟別々の道に進んだが

山県昌景も兄弟で別々の考えだったな

1568年に武田信玄が今川家への侵攻を開始し始めると、穴山梅雪は今川家臣への凋落や隣接する徳川家との交渉に大きな役割を果たしました。

ひろ
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この箇所は「大河ドラマ・どうする家康」でも描かれていましたね

穴山梅雪(穴山信君)は武田勝頼と不仲になり裏切る!?

このように穴山梅雪は武田信玄のもとで活躍していましたが、武田信玄が病で亡くなくなると四男の武田勝頼(眞栄田郷敦)が後を継ぎ、穴山梅雪は再び外交面で活躍。しかし、穴山梅雪と武田勝頼は意見が合わず不仲だったようです。

不仲説1

長篠・設楽原の戦いでは、武田勝頼は織田・徳川連合軍との決戦に挑もうと考えていましたが、穴山梅雪は甲斐への撤退を進言。結果、武田勝頼が合戦に挑み、大敗を喫してしまいます。このとき、穴山梅雪は積極的な交戦はせず、武田軍は猛将の山県昌景馬場信春を失う大損害を出したにも関わらず、穴山隊はほとんど無傷だったといいます。

不仲説2

武田勝頼は将軍・足利義昭との外交を穴山梅雪からいとこである武田信豊に交渉役を移管しています。さらに、穴山梅雪には東北地方の諸大名との交渉しか任せませんでした。

不仲説3

武田勝頼は武田信玄の「武田勝頼の娘と穴山梅雪の長男を婚姻させる」という遺言を反故し、武田信豊に嫁がせています。これには穴山梅雪も激怒したといいます。

ひろ
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大河ドラマでも武田勝頼と穴山梅雪の意見は度々衝突していますね、、、

これらの要因から穴山梅雪は武田家を見限り、織田・徳川方と内通するようになります。そして、1582年、織田信長(岡田准一)が武田家の滅亡させるために甲州征伐を開始すると、穴山梅雪は甲府に人質として預けられていた正室と長男を取り返しました。そして、武田家を裏切って織田家に従い、徳川家康(松本潤)の与力となりました。甲州征伐では、織田信長の長男である織田信忠を先導して容易く甲斐を攻め落とすことに成功しています。

武田家が滅亡すると、穴山梅雪は織田信長から甲斐を安堵され、織田信長に了承を得て武田家を相続させました。

ひろ
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穴山梅雪は武田家の血を残すためにあえて織田信長に従ったのかもしれません

徳川家康
徳川家康

金山を管理しておったから

信長殿に2000両も献上したそうじゃ

穴山梅雪(穴山信君)の悲しい最期

1582年、穴山梅雪は織田信長との謁見を果たすために、徳川家康と同行して安土城を訪れました。そして、織田信長との謁見を果たすとその後、徳川家康ともに堺を旅行。しかし、その途中に本能寺の変が勃発してしまいます。穴山梅雪は徳川家康とともに畿内から脱出を図りましたが、伊賀越えを目論む徳川家康とが別行動を取りました。

このことが仇となり、徳川家康と別行動を取った直後に山城(京都府)で落ち武者狩りにあってしまい命を落としました。なお徳川家康は無事に伊賀越えを成功させて、三河(愛知県)に帰国しました。

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穴山梅雪が別行動とった要因として

」がひどかったからだと言われています

穴山梅雪(穴山信君)の子孫

穴山梅雪は本能寺の変後の混乱により命を落としましたが、穴山家の血は長男の勝千代(武田信治)が後を継ぎました。勝千代は徳川家康を臣従する形で武田家を再興させます。しかし、わずか15歳で亡くなると再び武田家は断絶してしまいます。

徳川家康は武田家の名跡を残すために、自身の五男・万千代(武田信吉)を武田家の養子として武田家を再興させようと画策。しかし、万千代もわずか21歳で亡くなってしまったため、武田家は消滅しました。

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武田宗家は滅亡しましたが

武田の庶流は現在も続いています

まとめ

穴山梅雪(穴山信君)は今川家との交渉役や金山の管理を任せられる武田の重臣でした。にも関わらず、武田勝頼との不仲から武田を裏切り織田方に味方したため「不忠者」として捉えられることが多い人物です。

しかし、穴山梅雪が武田家が滅亡させられた後も武田家の名跡を残そうと尽力したことから、あえて武田を裏切り織田方に味方したのではないでしょうか。

ひろ
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穴山梅雪石川数正と同じような考えだったのかもしれません

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