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[大河ドラマ・どうする家康]山県昌景(橋本さとし)は武田勝頼と不仲だったのか? 子孫・年表・相関図

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康にも登場する

山県昌景橋本さとしさんが演じていますね!

徳川家康
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山県昌景最強武田騎馬隊の中でも最強集団の

赤備えを率いてた武将じゃな

ひろ
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山県昌景赤備え井伊直政真田幸村に受け継がれましたね

山県昌景はどのような生涯を送ったのでしょうか?

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山県昌景の年表

山県昌景の相関図

山県昌景の誕生

山県昌景(飯富昌景)の誕生についてははっきりわかっていません。山県昌景の父親は飯富道悦おぶどうえつの子ではないかと言われています。兄は飯富虎昌おぶとらまさと言われていますが、詳しことはわかっていません。2人は美濃(岐阜県)の守護・土岐氏に仕えていましたが、放浪したのちに甲斐(山梨県)にたどり着き武田信虎に仕えたといいます。

ひろ
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山県昌景の前半生はほとんどわかっていません

武田信虎時代の山県昌景についての詳しい情報わかっていません。ただ兄の飯富虎昌は1531年に主君の武田家に対して、反乱を起こしましたが、鎮圧されてしまい武田家に出戻っています。その後、武田信玄が父の武田信虎を追放するためにクーデターが勃発しました。兄・飯富虎昌は武田信玄に従ってクーデターに加担し、武田家の宿老としての地位を得ています。

一方、山県昌景は武田信玄(阿部寛)の信濃(長野県)侵攻に伴い、伊那攻めで初陣を飾りました。その後、敵陣に一番最初に乗り込み一番槍の武功を上げる功績をあげて侍大将に抜擢されています。

徳川家康
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源四郎(山県昌景)の赴くところ敵なし」と言わしめたほどの実力だったんじゃ

ひろ
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山県昌景の部隊がなぜ強いかは大河ドラマでも描かれていましたね

山県昌景は武田信玄への忠義を尽くす

1565年、かねてから武田信玄と仲の悪かった武田義信が謀反を画策しました。武田義信の教育係を任されていた兄・飯富虎昌はこの計画に加担しました。

一方、山県昌景はこの画策を主君の武田信玄に報告。そのため、このクーデターは未遂となり、武田義信は幽閉された上で自害に追い込み、兄の飯富虎昌は処刑されました

また、このときに飯富家が断絶されてしまったため、山県昌景はこれまで名乗っていた「飯富おぶ」から「山県」に改めました。

ひろ
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山県家は武田家に長年仕える譜代の名家だったんです

山県昌景の最強伝説

山県昌景の主君・武田信玄はライバルの上杉謙信川中島の戦い12年間にも渡って5度も戦いを繰り広げました。その中でも第四次川中島の戦いでは最も激しい戦闘が行われたと言われています。

山県昌景もこの戦に参戦し、上杉謙信の家臣・鬼児島弥太郎と一騎打ちとなりました。その途中で、武田信玄の長男・武田義信が窮地に陥るのを知り、山県昌景は鬼児島弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたいために、勝負を預けたい」と願い出たところ快諾。これには山県昌景は鬼児島弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛したといいます。

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鬼児島弥太郎は将軍の足利義輝の飼っている犬と猿を懲らしめたという伝説も残しています

また、山県昌景は武勇の誉れが高いですが、実は身長130-140 cmと戦国時代でもかなり小柄な体格だったといいます。さらに痩せており顔立ちもあまり良くなかったと言われています。しかし、山県昌景は「小柄で不器用だが、戦場にいると雷が落ちたような心地になる。武田信玄の家臣の中でも随一の大将」と恐れられるほどの人物だったといいます。

ひろ
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戦国時代の人々の平均身長は153 cmだったといいます

山県昌景は武田勝頼と不仲だったのか?

1573年、主君の武田信玄は京都を中心に勢力の拡大を目論んでいた織田信長(岡田准一)を討つために、甲斐から西に侵攻する西上作戦を敢行しました。その途中で武田軍は三方ヶ原徳川家康(松本潤)と激突。武田信玄はこの戦いで圧勝するも、その直後に持病が悪化して亡くなってしまいます。武田信玄の後を継いだのが四男の武田勝頼(眞栄田郷敦)でした。

山県昌景は武田家重臣の馬場信春とともに武田勝頼を補佐しました。ところが、武田勝頼と山県昌景との関係は悪かったといいます。その理由としては次のようなことが考えられています。

武田勝頼はカリスマの父・武田信玄を超えるために武田領の拡大を急ぎました。そのため、内政を固めることを重視した山県昌景や馬場信春との意見と対立するようになります。その一方で、武田勝頼は自身の側近の長坂光堅の主張を聞き入れ、溝は深まったといいます。

ひろ
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大河ドラマでも武田勝頼山県昌景との意見が合わない場面が度々見られますね

徳川家康
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実際、武田領を最大としたのも

武田勝頼の代じゃしな

関係が悪化しても、山県昌景はその後も武田勝頼に忠義を尽くし続けました。そして、武田勝頼は織田信長と徳川家康を討つために長篠・設楽原の戦いに挑みました。武田軍は15,000の兵だったのに対して、織田・徳川連合軍は35,000もの兵を率いていました。兵力の差が激しいことから山県昌景や馬場信春らの重臣の意見をまたも聞き入れません。

長篠の決戦の前夜、山県昌景馬場信春内藤昌豊といった武田信玄からの重臣とともに、かつて武田信玄ともに戦った日々を思い出しながら語り合いました。そして、「こうなったからには一命を賭して戦うしかない」と奮戦を決意。山県昌景ら重臣たちはこの戦いが最期になることを覚悟の上で今生の別れとして盃を交わしたと言われています。

そして、長篠設楽原の戦いが勃発。戦国最強と言われた武田軍は当時最新鋭の武器であった火縄銃を前になすすべもありません。山県昌景も開口一番に徳川軍と相対しましたが、大量の火縄銃の前に討ち死に。その後、馬場信春や内藤昌豊といった重臣を失った武田勝頼は戦線離脱を余儀なくされました。

ひろ
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最期まで武田に忠義を尽くした山県昌景は

まさに戦国武将の鑑のような人物ですね

山県昌景の子孫

ひろ
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山県昌景は長篠の戦いで討ち死にしてしまいましたが

その子たちはどうなったのでしょうか?

山県昌景には養子も合わせて、6人の息子がいたと言われています。

実子

山県昌光・・・織田信長による甲州征伐で亡くなったか上杉景勝に仕えたと言われています。

山県昌久・・・長篠の戦い後に母方の実家の尾張に移りました。その子は結城秀康に仕えて福井藩の家老職を務めました。

山県昌重・・・塙直之ばんなおゆきの家老となり、大坂夏の陣で戦死しました。

山県信継・・・徳川家康に仕えて500石を賜ります。その子孫は山梨県で旅館経営をしているといいます。

養子

山県定昌・・・上杉景勝の家臣となっています。

山県太郎右衛門

ひろ
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歴史上の人物として総理大臣の山縣有朋がいるけど

山縣有朋の祖先は山口県出身で山梨県の山県昌景とは関係がないのではないかと考えられています

まとめ

山県昌景武田信玄に仕えて、合戦で次々と武功を挙げたために武田家の重臣にまで上り詰めた武将でした。合戦での山県昌景隊の「赤備え」の姿は恐怖そのものであり、非常に恐れられたといいます。ところが、武田勝頼との折り合いが悪く、長篠の戦いを止めることができずに討ち死にしてしまいました。

ひろ
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歴史にもしはないですが

武田勝頼が長篠の戦いを思いとどまり山県昌景などの意見を聞き入れていたら

武田家はそう簡単には織田信長に滅ぼされなかったでしょうね

コメント

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