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[どうする家康・登場人物]徳川家康の長女が嫁いだ奥平信昌(白洲迅)はなにをした?

大河ドラマ
ひろ
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大河ドラマ・どうする家康にも登場する奥平信昌白洲迅しらすじんさんが演じていますね!

徳川家康
徳川家康

奥平信昌は長篠城をなんとか守り抜いてくれたんじゃ

それに亀姫(徳川家康の長女)の旦那でもあるぞ

ひろ
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奥田信昌の知られざる顔に迫っていきましょう!!

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奥平信昌の相関図

奥平信昌の誕生

奥平信昌・貞昌(白洲迅)は1555年に奥三河(愛知県)に有力国人の長男として誕生しました。奥平信昌が誕生した当時、奥三河は今川家、武田家、徳川家といった有力大名に囲まれている大変な地域。信昌の祖父・奥平貞勝の代までは今川家に従っていましたが、桶狭間の戦いが起こると今川家を見限って徳川家に味方しました。徳川家康(松本潤)のもとで遠江(静岡県)の掛川城攻めにも参戦しています。さらには徳川家康が織田信長に従軍した姉川の戦いにも参戦しています。

徳川家康
徳川家康

姉川の戦いが奥平信昌の初陣じゃよ

ところが、武田軍が奥三河へ向けて侵攻してくると、同盟する遠山家とともに戦うも惨敗してしまい、武田家に従属することになってしまいます。

ひろ
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このように奥平信昌は

今川→徳川→武田と主君を変えているんですね

奥平信昌とおふう

奥平信昌は武田信玄(阿部寛)への従属の証として、妻のおふうや弟を人質として武田に送りました。このとき、おふうはわずか13歳、弟の仙千代は10歳だったといいます。しかし、奥平信昌は武田信玄が亡くなったことを知ると、再び徳川家康に従属してしまいます。そのため、わずか16歳のおふうは山縣昌景の手によって磔に処されてしまいました。

ひろ
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わずか16歳で磔って、、、

おふうは悲惨な最期を遂げた女性としても有名な人物ですね、、、

徳川家康が奥平信昌に提示した条件とは

奥平信昌が徳川家に戻ることを聞いた徳川家康は織田信長(岡田准一)に相談。家康は帰参の代わりに次のことを条件として提示しました。

1.亀姫(徳川家康の長女)と奥平信昌との婚姻

2.領地の加増

3.妹を本多重純に入嫁させること

以上の要件から奥平信昌の帰参は許され、武田方に送られていた人質は処刑されてしまったといいます。

ひろ
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このことは「どうする家康」第21話でも詳しく描かれている内容ですね

奥平信昌が長篠城で耐え抜く!!

武田勝頼(眞栄田郷敦)は奥平信昌の離反を受けて、奥平家の居城の長篠城へ侵攻しました。このとき、奥平軍はわずか500の兵であったのに対し、武田軍は15000もの兵で押し寄せました。さらに武田軍は兵糧攻めを敢行します。そのため、奥平の兵たちは飢えに苦しみ、士気も最悪でした。

ひろ
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城兵たちは飢えを凌ぐために

掘りの「たにし」でさえも食べたといいます、、、

この状況を打破すべく、奥平信昌の足軽・鳥居強右衛門は徳川家康のいる岡崎城まで走り、救援を求めることを決意します。鳥居強右衛門は持ち前の体力で道のり50 kmを走り抜き、織田信長と徳川家康に援軍を要請することに成功しました。このことを知った奥平の兵たちは一気に士気があがり、援軍が到着するまで長篠城を守り抜くことに成功しました。

ひろ
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長篠城を守り抜いたことで

織田徳川連合軍は設楽原の戦いで武田勝頼に大勝利を収めましたね

奥平信昌のその後

奥平信昌は長篠城での功績を讃えられ、織田信長から「」の字を拝領したと言われています。しかし最近では武田家に仕えたときに武田信玄(武田晴信)から「」の字を賜ったのではないかとも言われています。また、徳川家康の長女・亀姫とも仲睦まじかったのか、4男1女をもうけて側室は娶らず、仲睦まじかったと思われます

徳川家康が関東へ国替えとなった際にはともに関東に移転し、上野国3万石(群馬県)の大名となりました。さらに関ヶ原の戦いで徳川方として参戦した際には、京都所司代として京都に潜伏中の西軍の安国寺恵瓊の捕縛に貢献しています。この功績が認められ、3万石から10万石の大名へと出世しました。

そして、大坂冬の陣の頃に60歳で亡くなってしまいました。

ひろ
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奥平信昌は徳川譜代として

家康によく貢献したと生涯でしたね

奥平信昌の子孫

奥平信昌と妻・亀姫との間には4男1女の子がいました。娘は徳川譜代の大久保家に嫁ぎ、長男・奥平家昌、次男・松平家治、三男・松平忠政は奥平信昌よりも先に亡くなってしまいます。四男・松平忠明は大坂の陣の功績が認められて、播磨姫路18万石を与えられ、江戸幕府の宿老として幕政に関わりました。

一方、本家の奥平家は奥平家昌の息子・奥平忠昌が後継者となり、下野宇都宮10万石(栃木県)、豊前中津10万石(福岡県)の藩主となり幕末を迎えることになります。

ひろ
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現在、中津では長篠城の籠城を称えるために「たにし祭り」が開催されているそうです

まとめ

奥平信昌今川、武田、徳川といった強国から自身を守るために主君を幾度と変えて、自国を守ってきた武将でした。人生最大のポイントとなる長篠城攻防戦では、家臣・鳥居強右衛門の活躍もあって見事に長篠城を守り抜いています。このことが主君・徳川家康から評価され、徳川譜代の大名として奥平家を明治まで存続させることに成功しました。

ひろ
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武田信玄が亡くなった際に

武田と今川を見比べた奥平信昌の判断は間違っていなかったといえますね

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