池田輝政は世界遺産・姫路城を大改築して現在の形にした武将やな
輝政は大出世を果たして大名までのし上がったんじゃよ
姫路城みたいな大きな城を築く財力があるもんなー
それでは池田輝政の生涯をみていこう!
池田輝政の年表
輝政は11男3女の子をもうけたけど
ほとんどが夭折してしまったよ
幕府が大名を改易するために仕組んだともいわれておるのー
池田輝政の相関図
池田恒興の母・養徳院はわしの乳母で
養徳院だけは乳首を噛みちぎらなかったんじゃ
そのことで大御ち様といわれたよ
池田輝政の誕生
池田輝政は1564年、池田恒興の次男として生まれました。父・恒興は織田信長と同じ乳母であったため、輝政も父や兄とともに信長に仕えています。
輝政の初陣となったのは、荒木村重の謀反による有岡城の戦い。有岡城に籠った村重は1年にわたって抗戦を続けましたが、家臣の離反により有岡城を抜け出して花隈城へ逃げてゆきました。池田親子は花隈城に逃げた村重の討伐に成功し、輝政は何人もの敵を討ち取ったことから信長から感状を与えられています。
花隈城は現在の元町駅周辺に建てられた近世城郭で、天守閣も存在したみたい
豊臣家臣時代
本能寺の変で主君・織田信長が亡くなると、織田家の棟梁を決めるために清洲会議が開かれました。このとき、父・恒興は豊臣秀吉、柴田勝家、丹羽長秀の重臣とともに出席し、秀吉に味方しました。
恒興は信長への哀悼の意を表すために坊主にしたみたい
翌年、賤ヶ岳の戦いでは豊臣軍に従軍して戦功が認められ、輝政は美濃(岐阜県)の池尻城の城主となります。ところが、秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、父・恒興と兄・元助が討ち死にしてしまいます。そのため、輝政が池田家の家督を相続し、美濃13万石の大名となりました。
この戦いでは、鬼武蔵といわれた森長可も討ち取られたんじゃよ
家督を継いでからは秀吉に従って、紀州征伐や九州征伐、小田原征伐など主要な合戦にはほとんど出陣。三河(愛知県)15万石にまで出世を果たします。
輝政が居城とした吉田城は東海道の要所で、古くから徳川家の地盤だったから
秀吉が輝政を信頼していたことがわかるなー
徳川家臣時代
輝政の正室・糸姫が産後の体調不良から実家に帰ると、輝政は徳川家康の娘・督姫を娶りました。督姫は北条氏直の正室でしたが、北条家が滅亡したため、徳川家に戻っていました。
秀吉は側室・淀の妹の江を輝政に嫁がせようとしたけど、
家康が江は秀忠の正室にしたいと考えていたから、督姫が輝政に嫁いだというよ
秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いが起こると輝政は迷わず徳川家に味方しました。前哨戦の岐阜城の戦いでは、福島正則と共に侵攻。輝政はもともと岐阜城の城主であったため、守りの弱いところへ攻め、一気に織田秀信を追い込みました。秀信は切腹しようとしましたが、織田信長の孫だった秀信を説得して思いとどまられせています。
かつての主君の孫が切腹するのは耐えられなかったのかな
関ヶ原の戦いで勝利に貢献した輝政は播磨(兵庫県)52万石の大名となり、姫路城を大改築します。その後、江戸城や名古屋城の普請や二条城での会見にも出席しています。
輝政が病気になったことを知った家康は、自身が調合した薬を輝政に送ったそうじゃ
まとめ
池田輝政は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた武将。秀吉や家康に気に入られたことで出世を果たし姫路52万石の大名となりました。輝政は父・恒興と同じで時勢を読む能力に優れており、関ヶ原の戦いですぐに東軍に味方したのはすばらしいものです。
輝政が家康の娘・督姫を娶った時、伏見城の徳川屋敷を訪れて、父・恒興を討ち取った永井直勝を呼び出して、父の最期を語らせたみたい
ところが、直勝がたった5000石だと知ると不機嫌になって、家康に直勝の加増を要求したといわれているよ