島津義弘は九州を統一した武将やな!
義弘は朝鮮出兵で大活躍して
明の兵には「鬼島津」と恐れられたんじゃ
明にもその名が知れ渡ったのかー
それでは島津義弘の活躍をみてみよう!
島津義弘の年表
島津家は大坂の陣に出陣していないんやな
その当時島津家は内乱のごたごたで
大坂の陣どころじゃなかったそうじゃ
島津義弘の相関図
島津家の強さの秘訣はやっぱり四兄弟の結束力やなー
戦国時代では兄弟で家督争いをするところも多かったが
島津家は協力して勢力を拡大したのー
島津義弘の誕生
島津義弘は1535年、薩摩(鹿児島県)に島津貴久の次男として生まれました。貴久の息子は島津四兄弟といわれ、義久、義弘、歳久、家久の兄弟は島津家を大きくするために力をあわせました。
19歳のときに岩剣城の戦いで初陣を飾ると、二年後の蒲生城の攻撃で真っ先に城内へきりこんで初めて首級をあげました。
そして兄義久が島津家の家督を継いで領国統治を行い、義弘は大将として出陣する役割分担がなされました。
義弘は常に戦の最前線で戦ったんじゃ
祖父の島津忠良は四兄弟について
「義久は総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評価したで
必殺!!釣り野伏せ戦法!!
1572年、日向(宮崎県)の伊東義祐が3千の兵を率いて島津家に攻め込んでくると、義弘はたった300人の兵でこれを向かいうちました。数の上では圧倒的に不利であったため、「釣り野伏せ」という戦法を採用しました。
釣り野伏せ戦法とは、全軍を3隊にわけて、そのうち2隊を左右に伏せさせます。中央の1隊が正面から敵軍と戦い、敗走を演じて退却します。敵を自分の陣地に誘い出すと、伏せていた2隊が現れ攻撃するという作戦です。
この作戦を実際に行うのは非常に難しく、信頼関係がないと成立しない作戦でした。しかし、義弘は何度もこの作戦を成功させ、合戦に勝利しました。
島津家が日向侵攻を続けていると、北九州の大名大友宗麟と耳川で激突しました。この耳川の戦いでも義弘は釣り野伏せ戦法を採用し、宗麟を撃破します。この戦いにより強大な勢力を誇った大友家は一気に衰退しました。
兄義久は「島津の繁栄は義弘一人の努力」と讃えたみたい
九州を勝ち取るも、、、
大友家を撃破して勢いに乗った島津家は、続く沖田畷の戦いによって肥前(佐賀県)の龍造寺隆信を打ち破り、九州統一まであと少しでした。
しかし、耳川の戦いで敗れていた大友宗麟は大坂の豊臣秀吉もとへ助けを求めます。そこで秀吉は島津家に対して「九州停戦令」を発令。これを島津家は拒否したため、秀吉は九州攻めを行いました。
はじめ毛利家や長宗我部家を派遣しましたが、大友家や長宗我部家が戸次川の戦いで敗れたことを知ると、秀吉自らも出陣することに決めました。
豊臣軍は秀吉と弟秀長が二手にわかれて総勢20万をこえる軍勢で九州へ攻め寄せます。これまで少数で大軍を破ってきた島津家でしたが、これにはなすすべなく降伏しました。
降伏した島津家でしたが、薩摩、大隈(鹿児島)の2カ国を安堵され、当主であった義久は出家して義弘が家督を継ぎました。
降伏したのに二カ国も領地をもらえたのは、石田三成の働きがあったとされているぞ
これぞ鬼島津!!
秀吉のもとで働くことになった義弘は、朝鮮出兵に参戦しました。義弘は3千の兵を率いて、明の3万の大軍を討ち破ります。この戦いによって「鬼島津」の名が天下に知れ渡ります。
また、関ヶ原の戦いでは少ない兵ながら西軍に参加。義弘は他の西軍の武将に少ない兵でしか参加できないことを馬鹿にされたため、合戦には消極的で傍観していました。ところが西軍の敗戦が濃厚になると、義弘は撤退を決意します。
義弘は西軍と東軍のどっちにつくか迷っていたみたいやで
ところが義弘のまわりには東軍の武将が多く布陣しており身動きのとりづらい状況でした。そこで義弘は「敵中突破」という作戦を敢行。これには突撃された福島正則隊は驚いて道をあけてしまうというありさまでした。義弘の家臣たちは、捨て身で義弘を守り抜いて大坂まで逃げ切りました。このとき千人いたという義弘隊はわずか80人まで減っていたといいます。
この義弘の撤退は敵の東軍からも称賛され、「島津の退き口」として語られるようになります。
主君を死ぬ気で守る家来たちの忠誠心が感じられるなー
まとめ
島津義弘は兄義久を合戦で活躍することで支え、島津家を拡大しました。義弘の武勇は凄まじく、「鬼島津」といわれるほどでした。
関ケ原の戦い後は、家康と粘り強く交渉してなんとか領土を守り抜き、島津家を守り抜き薩摩藩を開きます。
江戸幕府はこのとき島津家を改易しとけば、
幕末に倒幕されずに済んだかもなー