
龍造寺隆信ってあまり馴染みがないなー

隆信殿は肥前を中心に拡大した戦国武将で、
九州の大名大友家、島津家に並ぶ勢力だったんじゃ

それでは「肥前の熊」といわれた龍造寺隆信の生涯をみてみよう!
龍造寺隆信の年表




龍造寺家は九州の名門少弐家に一族のほとんどが滅ぼされたんやな


一族の恨みを隆信が晴らしたんじゃ
龍造寺隆信の相関図




九州の大名を敵にまわしているなー
だから大内家に頼ったのか


重臣直茂は隆信殿が亡くなったあとに龍造寺家をのとったんじゃ
龍造寺隆信の誕生
龍造寺隆信が生まれた龍造寺家はもともと太宰府の役人が先祖であり、鎌倉時代に肥前(佐賀県)の領主を任されていました。その後肥前の守護少弐家に仕えています。
龍造寺隆信は1529年、肥前に龍造寺周家の長男として生まれました。隆信は幼い頃に出家して、僧となり「円月」と名乗っていました。
その頃に龍造寺家は主君少弐家への謀反の疑いをかけられてしまい、一族のほとんどが殺されました。隆信はこの時出家していたので助かり、家督を継ぐことになります。


戦国時代では疑いをかけられてしまうと、一族皆殺しにされるんやな
出家していたら俗世間とは関係ないとして扱われるんやなー


一族の仇を討つ!!
隆信が龍造寺家の家督を継いだころ、周りの家臣たちは隆信が当主になることをよく思っていませんでした。
そこで隆信は当時中国地方一の大名大内義隆と同盟を結び、家臣たちの反発を抑え込みます。


隆信殿は直系の血筋じゃなかったから
家臣から反発が激しかったそうじゃ


中国地方の覇者の手を借りれたのは力強かっただろうなー
大内義隆から一文字もらって「隆信」と名乗ったんやで
信頼関係を築いていたみたいやな
しかし、大内義隆が重臣陶晴賢に討ち取られてしまいます。義隆の後ろ盾を亡くし、隆信の家臣は反乱を起こして隆信を佐賀城から追いだしました。
2年間浮浪の身分となった後に、隆信は地侍たちの協力を得て佐賀城に返り咲きました。勢いにのった隆信は重臣鍋島直茂と協力して、少弐家を滅ぼしました。


一族のほとんどを処刑した少弐家を滅ぼして、一族の仇を討ったんやなー


島津家に一歩及ばず、、、
隆信は中国地方を制圧していた毛利元就と手を組み、豊後(大分県)の大名大友宗麟と対立しました。
宗麟の命を受けた弟の大友貞親は佐賀城に攻め込みます。大友軍は大軍でおしかけたために、貞親は油断して戦場近くで宴会をしていました。
宴会をしている情報を聞きつけ、隆信は夜中に奇襲攻撃し貞親を討ち取りました。これが有名な今山の戦いです。


貞親は占いによって総攻撃する日をきめていたそうじゃ
大友家を討ち破っても勢力は依然大きかったので、隆信は大友家に従っていました。
ところが、薩摩(鹿児島県)の大名島津家が耳川の戦いで大友家に圧勝したのでした。これに便乗し、隆信は大友家から独立して北九州で勢力を拡大。北九州5ヶ国を得ます。
その後、隆信は力をつけてきた島津家と対立するようになります。隆信は2万5千の兵を率いて6千の島津軍と対決する沖田畷の戦いが起こりました。圧倒的に有利な状況に隆信は油断してしまい、島津軍に討ち取られました。


戦国時代では油断は禁物やな
油断してしまった武将はみんな討ち取られているなー


まとめ
龍造寺隆信は下剋上で成り上がり主君を滅ぼし、九州を代表する大名までのぼりつめました。
ただ性格が冷酷で、恩人の武将を滅ぼしたので離反した家臣も多かったり、九州には強力な大名が多くいたので、勢力を思うように拡大できませんでした。
また、隆信は非常に太っていて馬に乗れず、輿にのって合戦に出陣しており、機動性にかけていました。
そのせいで隆信は最期討ち取られたといわれています。


重臣の直茂も隆信が動けないから
見捨てて逃げていったというしな


健康は一番大切にしないとなー
信長公も家康殿もいつも健康を気にしておったわい

