豊臣政権にもキリシタン大名はいたんやな!
小西行長は優秀で商人から出世した武将じゃ
それに三成とも仲良うやってたわい
行長は三成とともに関ヶ原の戦いで西軍の将として戦ったんだよな
それでは小西行長の生涯をみていこう!!
小西行長の年表
幼いころからキリシタンなんやな
行長は商人のうまれやから交渉がうまかったんじゃ
小西行長の相関図
行長は海運担当だから三成と仲がよかったのか
行長は肥後を清正とともに統治したんじゃ
そのため2人の間にはライバル意識があったぞ
小西行長の誕生
小西行長は1558年、商売の町大坂堺の豪商小西隆佐の次男として生まれました。また両親の影響でキリスト教にひかれ、キリシタンとなります。
堺に出入りしていた大名宇喜多直家に小西家は仕えていました。直家は行長の才能を見出すと、宇喜多家家臣に登用しました。
行長は商人から武士へと出世したんかー
また直家はもともと毛利家に仕えていた大名ですが、織田信長の勢力拡大によって、織田家に仕えるようになりました。そして小西家は信長の家臣である豊臣秀吉に仕えました。
行長は織田家に仕えて、わしのもとに配属されたんじゃ
商人から大名に出世!!
商人出身のため、行長は秀吉から水軍の船への補給を担当し、水軍の船舶を監督する「船奉行」に任命されました。
信長亡き後、秀吉の勢力拡大に協力した行長は瀬戸内海の島を与えられます。そして九州攻めの後、肥後(熊本県)を統治していた佐々成政に代わって肥後の半分を統治しました。肥後のもう半分は加藤清正が統治しました。
2人で肥後を統治したから清正と行長のライバル関係が生まれたんやな
朝鮮出兵で大活躍!!
行長は朝鮮出兵では先陣をきって韓国の釜山を落としました。そして同じ肥後の大名加藤清正と手柄を争うかのように、漢城に攻め込みます。その後、行長は現在の北朝鮮の首都平壌まで攻め込みました。
行長はめざましい武功をあげていましたが、豊臣軍は明におされていたため、和睦することになりました。
外交の能力に長けていた行長ですが、明と和睦交渉をうまくできませんでした。そのため手柄を合戦に参加した武将へ十分に与えられないので、手柄をあげていた加藤清正や福島正則ら武断派武将と対立することになります。
行長や三成は文治派武将といって内政面の仕事をしてくれたんじゃ
文治派と武断派の対立は朝鮮出兵によって激化したわ
秀吉の死後、行長は三成に味方して関ヶ原の戦いに参加します。ところが、合戦に敗れてしまい三成とともに六条河原で処刑されました。
行長の軍は朝鮮出兵で疲弊していて、関ケ原の戦いでは数が少なかったみたいやで
まとめ
小西行長は商人から大名となった下剋上武将です。また石田三成のように内政だけ担当するのではなく、実際に合戦に参加して武功をあげたすばらしい武将でした。
行長が亡くなったあとの小西家はうまくいかず、途絶えてしまったみたいやで
下剋上でなりあがった代償はおおきいなー
またキリシタン行長の名前は遠くローマまで知られていたそうで、行長の死を知ったローマ法王は泣き悲しんだといいます。
行長はキリシタンである高山右近を所領に匿ったそうじゃ