大谷吉継は石田三成の盟友やな
関ケ原の戦いでも石田三成について、三成を支えた戦国武将!
三成と吉継の信頼関係は本物でな
吉継は関ケ原の戦いで負けるとわかっていても、三成とともに戦ったからなー
ものすごい友情やな
どうして吉継と三成はそんなに親しかったんやろ?
大谷吉継の生涯をみていこう!!
大谷吉継の誕生
大谷吉継の出生については諸説ありはっきりとはわかっておりません。大友家の家臣の子供である説。豊臣秀吉の隠し子である説などがあります。もし吉継が秀吉の隠し子であれば、秀吉から「吉」の字をもらった話は理解しやすいです。
吉継は少なくとも豊臣秀吉の三木城攻めのころには秀吉のもとで働いていたといわれています。
吉継も三成も出生は不明なのか
秀吉に隠し子がいれば、秀吉はおおっぴらにしそうだけどね
難病に悩まされる
吉継が石田三成と仲良くなったのには理由があります。大坂城で開かれた茶会で武将たちが茶をまわし飲みしていた時、難病の吉継の顔にある膿が茶碗に落ちてしまいました。まわりの武将たちはその茶を飲むのを嫌がりましたが、三成だけはその茶を飲み干し、さらにおかわりまで要求したそうです。
それ以来吉継は三成に恩を感じて、三成についていくようななりました。
しかし、吉継の難病はひどかったです。関ヶ原の戦いのときには、視力のほとんど失い、体の自由もままならず、戦場には戸板にのって指揮をしました。
茶会から三成と吉継の関係は始まったんじゃな
三成は他の武将とも仲ようやってくれたらよかったのになー
三成とともに関ヶ原の戦いに挑む!!
秀吉が亡き後、前田利家も亡くなったことで、豊臣からどんどん武将が離れていきました。また、三成が武断派の加藤清正らから襲撃を受けたことにより三成は徳川家康に仲介を依頼しました。これにより三成は蟄居させられてしまいます。
蟄居とは家に閉じ込められ隠居させられることで
刑の一種やで
三成と家康の対立が激化するなか、吉継は三成には人望がないため、不利だと考えると、東軍に参加しようとしていました。
しかし三成から度重なる説得をされ西軍につくことを受け入れました。
ただ、吉継は
「三成には人望がなく、家康には人を動かす政治力があるから勝てない」
と言いました。
これは吉継と三成の信頼関係がなければいえないような大胆な発言です。さらに総大将が三成なら味方してくれる武将が減ると考え、毛利輝元を総大将にしました。
三成の覚悟におされて
吉継は三成に命をささげたんじゃ
まさに盟友であるからこそなせるわざじゃ
天下分け目の関ヶ原の戦いの勝敗が決定的になったできごとといえば、小早川秀秋の裏切りです。吉継は優れた洞察力で秀秋の裏切りを事前に勘づいていました。そのため関ヶ原では裏切るであろう秀秋の近くに陣を取ります。
しかし、秀秋が裏切ったことで周りの武将も裏切ってしまいました。これを予想していたなかった吉継はなすすべなく自害してしまいました。
吉継は秀秋の裏切りを予想したとは
本当にすばらしい洞察力をもっていたんだね
まとめ
大谷吉継は秀吉が
「一度は100万の大軍を指揮させてみたかった」
と伝えられているほどの名軍師です。
また盟友三成との情もあつい真っ直ぐな戦国武将でした。
半兵衛といい官兵衛といい
豊臣家は軍師に恵まれておるな