真田幸村は戦国一の兵といわれ、
徳川家康を最後の最後まで追い詰めたとされる戦国武将やな
真田幸村は人気武将ランキングでもいつも上位の武将や
幸村は最期まで豊臣に尽くして戦ってくれた武将なんじゃ
その勇姿は名実ともに日本一の兵よ
幸村はかっこいいよね!!
それでは真田幸村の生涯を見ていこう!!
真田幸村の年表
49歳で亡くなったのか
家康を追い詰めたからもっと長生きかとおもってた
真田幸村の相関図
兄は徳川家康に仕えて、弟は豊臣秀頼に仕えたのか
複雑な関係だ
両家に仕えることで真田の血を絶やさないようにしたんじゃな
真田幸村の誕生
真田幸村の生まれた頃の話や幼少期のことはよくわかっておらず、生まれた年すらはっきりしていません。大方の予想では1567年ごろといわれています。また通称は幸村といいますが、本名は信繁です。
幼少の頃は豊臣秀吉のもとへ人質にだされていて、前半生のほとんどを大坂城で過ごしていました。
幸村は大坂城で人質生活を送っていたのか
それで豊臣方に思い入れがあるんだな
関ケ原の戦いでは西軍として活躍
時は流れ、1600年に徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが勃発し、幸村は父昌幸とともに豊臣方の西軍に味方しました。真田家は直接関ヶ原には向かわず、居城の上田城で家康の息子徳川秀忠を迎えうちます。
秀忠は徳川家の重臣で固められた3万8千の大軍を率いて上田城に攻め込み、対する真田軍はたった2500程度の軍勢でした。
真田家は秀忠の足止めのために上田城で奮闘したんじゃ
秀忠が圧倒的に有利な状況にも関わらず、上田城は全く陥落しません。これは以前に家康が上田城を攻めた時と同様でした。
結局上田城を落とせなかった秀忠軍は撤退を余儀なくされてしまします。
秀忠はなんとか関ヶ原に到着したんじゃが、
家康にこっぴどくしかられたというぞ
幸村たちが上田城で合戦を繰り広げている間に、関ヶ原では決着が付いていました。また、徳川家に仕えていた兄信幸に説得され父昌幸と幸村は秀忠に降伏します。
家康は上田合戦で苦しめられたので、昌幸と幸村を死罪にしようとします。ところが、兄信之と徳川家重臣本多忠勝(信之の義理の父)は家康に助命を嘆願します。
この働きかけが功をそうし、幸村たちは和歌山県の九度山に配流されることで落ち着きました。
九度山での厳しい監視下における生活は退屈で困窮を極めました。昌幸はこのような生活に耐えられなくなり、1611年になくなってしまいます。
そんな中、豊臣家から大坂の陣の招待状が届きました。
蟄居生活は本当に退屈だったんだろうな
このまま亡くなっていたら、幸村の名前は後世には残らなかったやろな
決戦!!大阪の陣!!
幸村は大阪城の南側が弱点であることを見極めると、冬の陣では出城の真田丸を大坂城の南側に築いて徳川勢を圧倒します。徳川勢の兵うち、討ち取られたほとんどは幸村軍によるものであるといわれています。
突如、豊臣家と徳川家は和解し休戦します。このとき幸村は家康から信濃(長野県)の国を与えるといわれましたが、拒否しました。
このやりとりには、武将としての覚悟がでているな
よほど、武将として活躍できることが嬉しかったんだろうな
翌年の夏の陣では、和睦によって、大坂城の堀がすべて埋められてしまいます。
幸村は何度も堀が埋められるのに反対したみたいだけど
聞き入れられなかったらしいよ
そこで幸村は家康の首を狙うしかないと考え、家康の本陣にめがけて3回も突撃し、本陣を突き刺したと言われています。家康の本陣が突き崩されたのは武田信玄と三方ヶ原の戦いで敗れた時以来であります。
しかし、圧倒的な数の差になすべなく幸村は討ち取られてしまい戦死してしまいました。
幸村の兜には六文銭があり、六文銭は三途の川を渡るための通行料なんじゃ
つまり「いつでも死ぬ準備はできているぞ」ということを示しておるんじゃな
さすが日本一の兵だね!!
まとめ
真田幸村がこれほどまでに有名としたのは大坂の陣での大活躍です。天下人徳川家康に自害を覚悟させるほど追い詰めた戦国武将はなかなかいないでしょう。
それに家康を追い詰めただけでなく、その散りざまも見事であったことが人気の秘密だとおもいます。
幸村は勝ち目がない戦であるとわかっていたからこそ最期まで死にものぐるいで戦い続けれたのかな