細川忠興は妻のガラシャを愛しすぎた武将として有名だなー
忠興は藤孝(幽斎)の血をひいて
文化人としても活躍したんじゃ
三斎流という茶道の流派を作ったもんなー
それでは細川忠興の生涯をみていこう!
細川忠興の年表
忠興は本能寺の変後すぐに秀吉殿に従って
明智の残党を蹴散らしたんじゃ
その中で妹の夫・一色義定とその兵も皆殺しにしたんだ
このことに妹は激怒して、忠興の顔に深い傷を負わせたよ
細川忠興の相関図
忠興は父・藤孝の血をひいて、文化人・三斎として大成をしたよ
茶の湯にも精通しておって、利休七哲の1人にも数えられておる
細川忠興の誕生
細川忠興は1563年、細川藤孝(幽斎)の長男として誕生しました。細川家は室町幕府のナンバー2である管領に就ける名門家。ところが、13代目将軍・足利義輝が三好義継によって暗殺されると、忠興は父・藤孝とともに足利義昭を将軍にするため、織田信長を頼りました。この時、信長との取り次役を担ったのが明智光秀で、藤孝と光秀は懇意の仲となります。その後、信長が台頭してきたため、細川家は織田家に仕えました。
信長のおかげで足利義昭は上洛できたけど
信長と義昭は争ってしまったもんなー
40万石の大大名へ
信長に仕えた忠興は謀反を起こした松永久秀を攻略するため、信貴山城の戦いに出陣。忠興は顔に傷を負いながらも戦い、武功を挙げました。この様子をみた明智光秀は「与一郎(忠興)の働きに恥じぬよう、皆の衆も掛かれ」と自軍を鼓舞しています。
合戦後は信長も忠興を称賛して感状を送ったよ
光秀の娘・ガラシャと結婚すると、明智軍の与力となります。しかし、義父・光秀が本能寺の変を起こし、主君・織田信長を討ち取りました。そして、光秀は藤孝や忠興に味方となるよう何度も要求しましたが、藤孝は剃髪して隠居し忠興はすぐに豊臣秀吉に従いました。
素早く光秀と手を切ったことで、内通を疑われずすんだんやなー
秀吉に仕えてからは小牧長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐に出陣し、武功を挙げています。また、朝鮮にも出陣するなど、秀吉が亡くなるまで豊臣政権に忠誠を誓っていました。
秀吉殿から豊臣姓を下賜されておるぞ
豊臣秀吉が亡くなると、石田三成との確執が深まりました。忠興は武断派の加藤清正や福島正則と結託して、石田三成邸を襲撃。三成が寸前で勘づいたため、襲撃は失敗しましたが、武将間の亀裂が深まりました。
三成はわしのもとへ逃げ込んで事なきを得たんだよ
関ヶ原の戦いでは徳川家康に誘われて、東軍に与し、豊前34万石の大名となります。さらに、豊後6万石も与えられため、忠興は40万石の大名にまで成長し、小倉城を大改築しました。
もともと豊前は黒田長政が治めていて
忠興が入国する前に長政は年貢を全部もっていったから、忠興と長政の仲が悪くなったよ
忠興は暴君!?
忠興は戦国武将一気が短いことで有名で
周りの人をよく困らせたよ
エピソードその1
妻・ガラシャは戦国一の美女として知られ、忠興は彼女を溺愛していました。そのため、本能寺の変後も逆臣・明智光秀の娘であるガラシャとは離縁せず、山奥に幽閉して匿いました。
この幽閉生活を聞きつけた豊臣秀吉の計らいによって、ガラシャは解放されたよ