今川義元の跡を継いだのは長男の今川氏真だな
氏真は戦国三大愚人と言われておるんじゃよ
今川家は桶狭間の戦いで大敗したのに、よく幕末まで存続させたよなー
それでは今川氏真の生涯を見ていこう!
今川氏真の年表
氏真は江戸時代になると京都から江戸に移り住んだけど
家康に気に入られようと何度も江戸城を訪れたから、城から離れた品川に屋敷を与えられたよ
天下人に取り立てられたい者はたくさんおるからのー
今川氏真の相関図
武田征伐の後、家康は「氏真に駿河を与えたらどうか」と進言したけど、
信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」といったよ
これを聞いた氏真は慌て逃げたんじゃぞ
すぐに本能寺の変が起きたから助かったんじゃ
今川氏真の誕生
今川氏真は1538年、駿河(静岡県)に今川義元の長男として誕生。今川家は足利将軍家と関係のある名家であったため、戦火を恐れた公家たちが京都から駿府に逃げ込んできました。その結果、駿府は雅な文化で、京都のような街並みとなります。そのような環境で誕生した氏真は和歌や書画などに趣深かったといいます。
天才軍師・太原雪斎から教育を受けていたみたいだしなー
桶狭間からの転落!!
父・今川義元は北条家と武田家と三国同盟を結んで東側のまもりを固め、尾張(愛知県)の織田家への侵攻を画策していました。そこで、義元は40歳にも関わらず、領国の管理を氏真にまかせるため、今川家の家督を譲っています。
氏真は三国同盟の証として、北条氏康の娘・早川殿と結婚しておるの
1560年、義元は尾張へ侵攻し、桶狭間の戦いが勃発。織田信長の奇襲攻撃を受けて討ち取られしまい、今川家の重臣も次々と亡くなりました。
氏真は弔い合戦は避け、領国の安定をはかりました。また、信長より先に楽市楽座を取り入れて商業の発展に努めたといいます。ところが、三河(愛知県)や遠江(静岡県)では動揺が収まらず、次々に家臣たちが離反してゆきました。
徳川家康や井伊直親もこのときに離反しているぞ
氏真の尽力も虚しく、今川家の弱体化は進む一方でした。武田信玄が同盟を破って駿河に侵攻してくると、これに便乗して徳川家康も今川領へ侵攻。家臣の裏切りが相次ぎ氏真は徳川軍に降伏し、妻の実家・北条家に送られました。ここに戦国大名としての今川家は滅んでしまったのです。
信玄は今川家との同盟を解消するために、
今川家から送られていた娘を送り返しているよ
細々と
北条氏康に迎いいれられた氏真は、小田原で平穏な生活を送り始めました。ところが、氏康が亡くなり、妻の兄・北条氏政が当主となると、北条家は武田家と和睦。これに怒った妻・早川殿は氏真とともに小田原を後にし、徳川家康を頼りました。このことで、氏真は父の仇である信長に謁見し、得意の蹴鞠を披露したといいます。
これを見た人々は「あれが父の仇も討てなかった御曹司のなれ果てよ」と嘲笑したみたい
長篠の戦いでは徳川軍に従って、武田軍を蹴散らしています。その後、家康に付き従って公家や文化人の接待をしながら暮らしたといいます。1590年ごろには京都に移り住み、歌会や連歌会などに出席しながら悠々自適に暮らしていました。
生活費はわしや家康が賄っていたんじゃ
江戸時代になると、近江(滋賀県)500石を賜り、江戸に屋敷を与えられています。長年連れ添った早川殿が亡くなると、その2年後に亡くなりました。
氏真の子孫は江戸時代も高家として存続したよ
まとめ
今川氏真は桶狭間の戦い以降、今川家を持ち直すために力を尽くしましたが、敵対勢力の勢いを食い止めることができず、今川家を滅亡させてしまいました。ところが、幼少の頃から学んだ和歌や書画などに趣のある文化人として、京都で悠々自適に過ごて生涯を終えました。
氏真は戦国武将としての今川家を滅亡させてしまったけど、
江戸時代には高家として存続させたから、そこまで愚将ではないかもなー