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今川義元が亡くなった跡の今川家はどうなったの?

戦国武将
ひろ
ひろ

今川義元の跡を継いだのは長男の今川氏真だな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

氏真は戦国三大愚人と言われておるんじゃよ

ひろ
ひろ

今川家は桶狭間の戦いで大敗したのに、よく幕末まで存続させたよなー

それでは今川氏真の生涯を見ていこう!

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今川氏真の年表

ひろ
ひろ

氏真は江戸時代になると京都から江戸に移り住んだけど

家康に気に入られようと何度も江戸城を訪れたから、城から離れた品川に屋敷を与えられたよ

豊臣秀吉
豊臣秀吉

天下人に取り立てられたい者はたくさんおるからのー

今川氏真。長男や次男も江戸幕府に出仕している。

今川氏真の相関図

ひろ
ひろ

武田征伐の後、家康は「氏真に駿河を与えたらどうか」と進言したけど、

信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりはを切らせたらいい」といったよ

豊臣秀吉
豊臣秀吉

これを聞いた氏真は慌て逃げたんじゃぞ

すぐに本能寺の変が起きたから助かったんじゃ

織田信長。公家や僧と茶会を開くこともあった。(三宝寺)

今川氏真の誕生

今川氏真いまがわうじざねは1538年、駿河(静岡県)に今川義元の長男として誕生。今川家は足利将軍家と関係のある名家であったため、戦火を恐れた公家たちが京都から駿府に逃げ込んできました。その結果、駿府は雅な文化で、京都のような街並みとなります。そのような環境で誕生した氏真は和歌や書画などに趣深かったといいます。

ひろ
ひろ

天才軍師・太原雪斎から教育を受けていたみたいだしなー

今川義元。太っていて馬に乗れなかったのではなく、名家の証として輿に乗っていた。(歌川国芳)

桶狭間からの転落!!

父・今川義元は北条家と武田家と三国同盟を結んで東側のまもりを固め、尾張(愛知県)の織田家への侵攻を画策していました。そこで、義元は40歳にも関わらず、領国の管理を氏真にまかせるため、今川家の家督を譲っています。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

氏真は三国同盟の証として、北条氏康の娘・早川殿と結婚しておるの

1560年、義元は尾張へ侵攻し、桶狭間の戦いが勃発。織田信長の奇襲攻撃を受けて討ち取られしまい、今川家の重臣も次々と亡くなりました。

氏真は弔い合戦は避け、領国の安定をはかりました。また、信長より先に楽市楽座を取り入れて商業の発展に努めたといいます。ところが、三河(愛知県)や遠江(静岡県)では動揺が収まらず、次々に家臣たちが離反してゆきました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

徳川家康井伊直親もこのときに離反しているぞ

氏真の尽力も虚しく、今川家の弱体化は進む一方でした。武田信玄が同盟を破って駿河に侵攻してくると、これに便乗して徳川家康も今川領へ侵攻。家臣の裏切りが相次ぎ氏真は徳川軍に降伏し、妻の実家・北条家に送られました。ここに戦国大名としての今川家は滅んでしまったのです

ひろ
ひろ

信玄は今川家との同盟を解消するために、

今川家から送られていた娘を送り返しているよ

早川殿。氏真とは仲睦まじかった。

細々と

北条氏康に迎いいれられた氏真は、小田原で平穏な生活を送り始めました。ところが、氏康が亡くなり、妻の兄・北条氏政が当主となると、北条家は武田家と和睦。これに怒った妻・早川殿は氏真とともに小田原を後にし、徳川家康を頼りました。このことで、氏真は父の仇である信長に謁見し、得意の蹴鞠を披露したといいます。

ひろ
ひろ

これを見た人々は「あれが父の仇も討てなかった御曹司のなれ果てよ」と嘲笑したみたい

長篠の戦いでは徳川軍に従って、武田軍を蹴散らしています。その後、家康に付き従って公家文化人の接待をしながら暮らしたといいます。1590年ごろには京都に移り住み、歌会や連歌会などに出席しながら悠々自適に暮らしていました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

生活費はわしや家康が賄っていたんじゃ

江戸時代になると、近江(滋賀県)500石を賜り、江戸に屋敷を与えられています。長年連れ添った早川殿が亡くなると、その2年後に亡くなりました。

ひろ
ひろ

氏真の子孫は江戸時代も高家として存続したよ

徳川家康。氏真を牧野城の城主にしたが、上手くいかなかった。(大阪城天守閣蔵)

まとめ

今川氏真桶狭間の戦い以降、今川家を持ち直すために力を尽くしましたが、敵対勢力の勢いを食い止めることができず、今川家を滅亡させてしまいました。ところが、幼少の頃から学んだ和歌や書画などに趣のある文化人として、京都で悠々自適に過ごて生涯を終えました。

ひろ
ひろ

氏真は戦国武将としての今川家を滅亡させてしまったけど、

江戸時代には高家として存続させたから、そこまで愚将ではないかもなー

今川氏真。氏真は文化人であったが、剣豪の塚原卜伝から剣術の指導を受けていた。(集外三十六歌仙)

コメント

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