戦国三大愚人といわれる細川政元!
超名門家に生まれた武将だな
政元殿は「半将軍」と呼ばれておって
絶大な権力を誇っていたんじゃ
将軍以上の権力を持っていたとか
それでは細川政元の生涯をみていこう!
細川政元とは?
細川政元は1466年、細川勝元の長男として誕生しました。細川家は室町幕府のナンバー2の管領職に就ける名門で、父・勝元は応仁の乱の東軍総大将。ところが、合戦中に病死してしまい、政元はわずか8歳で家督を継ぎました。
政元の幼名は「聡明丸」といって、その名の通り非常に聡明だったから
勝元は「この子がいれば細川家は安泰である」といって亡くなったよ
時は流れ、9代目将軍・足利義尚が亡くなると、後継者争いが勃発。政元は義尚のいとこの義澄を押しますが、日野富子や政敵・畠山政長がおす義材が将軍となってしまいます。
日野富子は8代目将軍・足利義政の正室じゃ
応仁の乱の発端となった人物じゃ
畠山政長を蹴落としたい政元は義材を幽閉して、義澄を11代将軍とします。そして政長も自害に追い込んで、絶大な力を手に入れたため、「半将軍」と呼ばれるようになりました。
愚人と言われてるわけ
絶大な権力を手にしていた細川政元がなぜ日本三大愚人の1人に数えられている理由をみてみよう!
エピソードその1
半将軍と言われるほど絶大な権力を手にした政元は政治より修験道にはまってしまいます。いつかは天狗になりと考えた政元は、かつて源義経が天狗と修行したといわれる鞍馬に籠ってしまいます。呪術はしっかり習得していたようで、政元の屋敷に怪鳥が出現したり、首が浮いていたりしたそうです。
他にもキツネやイタチの呪術も使いこなしていたそうじゃ
エピソードその2
政元はかなり奇人変人で、儀式の際には被らなくてはならない烏帽子を被りたくないと嫌がったため、将軍の元服儀が延期されています。また、後柏原天皇の即位式が無益であるとして開催を認めなかったり、突然山伏のお経を唱え出して周囲を驚かせたりしていました。
政元は急に修行に出ていくから、将軍・義澄が説得しにいかないといけなかったんだ
エピソードその3
修験道を極めるには40歳まで女人禁制と考え、一切妻を娶りませんでした。しかし、細川家は名門家であったため、跡継ぎがいないと困ります。そこで、五摂家の九条家から澄之を養子に迎えました。
ところが、細川家と縁がないと不満の声がでたため、阿波細川家から澄元も養子とします。これに便乗した周りのものたちは、野州細川家から高国を養子として送り込んできました。
政元は誰を後継者にするかはっきりすることなく亡くなったため、細川家には20年にも及ぶ抗争が繰り広げられました。
政元も武士に多い男色家だったみたい
まとめ
細川政元は足利義澄を11代将軍とすることで、絶大な権力を有した武将です。父・細川勝元が認めたように、かなり有能な人物でしっかり政治をすれば、外敵の侵略も防ぐもできる人物でした。
ところが、急に政治に嫌気をさしたのか、合戦中に修験道を極めるため「奥州へ修行しに行く」といいだしたのです。とうとうあきれた家臣たちは風呂に入っている政元を襲撃して暗殺してしまいました。
政元は何度も修行のために出奔していたからなー