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大坂の陣で真田幸村より活躍した!?名もなき毛利勝永とは?

戦国武将
ひろ
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大坂の陣では真田幸村が活躍したのが有名!

だけど、幸村より活躍した豊臣方の武将がいたみたい

豊臣秀吉
豊臣秀吉

毛利勝永のことじゃな

大坂冬の陣では目立った活躍はできんかったが

夏の陣では家康を追い詰めたぞ

ひろ
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実は真田幸村より活躍した毛利勝永の生涯をみていこう!

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毛利勝永の年表

ひろ
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毛利勝永の働きには黒田長政などの武将も称賛しているけど

全然有名ではないね

豊臣秀吉
豊臣秀吉

やはり「真田日本一の兵さなだひのもといちのつわもの」の方が有名じゃな

豊臣秀吉。毛利親子の主君。(高台寺蔵)

毛利勝永の誕生

毛利勝永もうりかつなが(森吉政)は1578年、豊臣秀吉の家臣である森吉成もりよしなりの子として尾張(愛知県)で生まれたといわれています。森吉成は豊臣秀吉に仕える古参家臣で黄母衣衆きぼろしゅうの1人でした。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

森可成もりよしなりとは別の人物じゃぞ

ひろ
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父親の名前は森?

毛利じゃないのか?

1587年の九州征伐を終えた豊臣秀吉は、武功を挙げた森吉成に6万石を与えました。そのときに秀吉の命を受けて、森氏から毛利氏に改名しています。そして、父・森吉成は毛利勝信と名乗り、息子の勝永も毛利姓を名乗るようになりました。

ひろ
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毛利輝元も森氏から毛利氏に名乗ることをすすめたそうだよ

豊臣秀吉
豊臣秀吉

輝元の接待役にもなっておるしのー

毛利輝元。関ヶ原の戦いでは
勝永を家臣同様の扱いをしている。(毛利博物館所蔵)

豊臣への義理を貫く

その後、勝永は1597年の朝鮮出兵に出陣しており、加藤清正を救援するという武功を挙げました。続く、1600年の関ヶ原の戦いには西軍の将として出陣し、前哨戦の伏見城の戦いで活躍を見せています。

ところが、西軍についてしまったため、6万石の領地を没収され、親交のあった土佐(高知県)の山内一豊に引き取られてしまいます。

ひろ
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毛利親子が処刑されずに済んだのは

徳川家康がかつて伏見城を普請する際、毛利親子が困った家康を助けたからといわれているよ

しばらくして、豊臣秀頼が来たる決戦・大坂の陣に備えて兵を集め始めると、勝永は豊臣家には多大なる恩を受けた、今度はその恩を返したいと思います。

ところが、密かに高知を抜け出し、大坂城へ入ると、愛する妻や子は処刑されてしまう。このことに思い悩んでいると、妻が

君(豊臣秀頼)の御ために働くのは我が家(毛利家)の名誉、残る者の心配をするなら私たちは一命を絶つ

と言って、勝永の背中を押しました。そうして、勝永は密かに大坂城に入城します。

ひろ
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これで、後藤又兵衛、真田幸村、長宗我部盛親、明石全登、毛利勝永の大坂五人衆が誕生したな

大坂城。大坂城の攻略法は豊臣秀吉が生前に徳川家康に伝えたとされる。家康はそれに習って攻め込んだ。(wikipedia)

幸村より活躍した大坂夏の陣

勝永は豊臣恩顧の大名ということで、活躍が期待されましたが、大坂冬の陣では目立った武功を挙げることなく終わってしまいました。

ひろ
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大坂冬の陣では、真田幸村真田丸を築いて大活躍していたなー

冬の陣での講和によって大坂城の堀を埋め立てられてしまったため、豊臣方の武将が勝つには徳川家康の首ただ1つしかありませんでした。そこで、勝永や真田幸村、後藤又兵衛は家康の首目指して総攻撃を仕掛けます。

ところが、後藤又兵衛が討ち取られてしまいます。幸村は又兵衛が討ち取られたことを深く悲しみ、「もはやここまでか」と嘆いていました。これに対して勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば、豊臣秀頼様の前で晴々しく果てましょう」と励ましたといいます。

ひろ
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あの真田幸村を慰めていたのか

そして1615年5月7日、勝永は8000の兵を率いて徳川本陣へ突撃を開始します。毛利隊は徳川軍を圧倒し、瞬く間に本多忠朝を討ち取り、さらに救援に駆けつけた、小笠原秀政忠脩親子も討ち取ります。

ひろ
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本多忠朝は戦国最強の本多忠勝の次男だ

勝永の猛攻は止まらず、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破し、遂には家康の本陣に突入するという活躍を見せます。

その隙に真田幸村は徳川の本陣へ目がけて3度も突撃を繰り返しました。ところが、真田隊は壊滅状態に陥り、幸村は討ち取られてしまいます。「もはやこれまで」と考えた勝永は大坂城まで撤退します。

そして翌日、燃え盛る大坂城で主君・豊臣秀頼の介錯を務め、自身は長男とともに自害して果てました。

ひろ
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戦後、勝永の妻子は京都へ護送されて次男は処刑されたけど

妻や娘は助命されたよ

真田幸村。豊臣秀頼とともに鹿児島まで落ち延びた
という伝説が残っている。(上田市立博物館所蔵)