福島正則は猛将のイメージだな
加藤清正と仲がよかったことが有名やな
正則は清正と一緒に豊臣家を裏切りよった
三成と仲が悪かったからのー
正則も裏切ったのかー
それでは福島正則の生涯をみていこう!!
福島正則の年表
江戸時代にはいると徳川家から煙たがられて
お家お取り壊しになったのか
正則は大坂の陣にも参戦していないしのー
徳川家はずっと目をつけていたんじゃろな
福島正則の相関図
加藤清正と同じような相関図をしているなー
正則と清正の仲の良さがでているのー
福島正則の誕生
福島正則は1561年、尾張(愛知県)に生まれました。豊臣秀吉の親戚であったために幼い頃から、正則は秀吉に仕えており、加藤清正とともに秀吉から可愛がられていました。
正則は秀吉の三木合戦で初陣を飾ると、本能寺の変を起こした明智光秀討伐でも活躍します。特に、賤ヶ岳の戦いで武勇をあげ、盟友清正とともに七本槍の1人に挙げられました。
その後も秀吉のもとで合戦に参加して伊予(愛媛県)の大名となります。
幼い頃から秀吉に仕えているから、豊臣家に思い入れがあるんやろな
情にあつい猛将!!
正則は武勇一辺倒の武将として描かれることが多いです。実際、感情が荒立つことはよくありました。
しかし、自身はキリシタンではないにも関わらずキリシタンへの理解を示したり、家臣にも優しく接しました。
また正則の逆鱗に触れた家臣を牢屋にいれたところ、その家臣が餓死しそうになったのを知って許したというエピソードもあります。
感情の浮き沈みが激しいから三成とも対立してしまったのかもしれないなー
正則は酒癖が悪いやつで、酔っ払って家臣を切腹させるほどじゃ
酔いが覚めて家臣がいないことを知るとひどく後悔したというぞ
徳川家康に操られ、、、
正則は豊臣家の家臣石田三成と反りがあいませんでした。というのも正則や加藤清正らは武断派といわれ合戦で武功をあげるタイプの武将であり、石田三成や小西行長などは文治派といわれ内政で成果を上げる官僚のような武将であったからです。
そして朝鮮出兵で三成が合戦に出陣せず、武断派は出陣したことにより溝はさらに深まりました。
秀吉亡き後、正則は清正と一緒に三成を襲撃します。これをみた徳川家康は清正や正則を東軍に引き込み、関ヶ原の戦いに参加させました。正則は宇喜多秀家と死闘を繰り広げ、関ヶ原の戦いの勝利に貢献します。
そして正則は安芸、備後(広島県)の2ヶ国を家康から与えられます。
ところが忠義のあつい正則は、東軍についたものの、豊臣への恩は忘れていませんでした。そのため、家康から不審がられてしまい、正則は大坂の陣には参加していません。
また、居城の広島城を幕府の許可なく改築したとして、正則は信濃に左遷されました。
関ケ原の戦いのために家康は正則を利用したんじゃな
徳川家が勝ったら使い捨てられたんじゃ
正則は台風の影響を受けたから城を改築しようとしただけみたいやで
それに徳川家へお伺いを立てたみたいだし
徳川家はずっと福島家をどうやって滅ぼそうか考えていたんやろな
まとめ
福島正則は加藤清正と同じで幼い頃から秀吉のもとで働いた武将でした。ソリの合わない石田三成のことを嫌い、徳川家康に接近して東軍につきました。これを家康はうまく利用して、関ヶ原の戦いに参加させます。その後は家康に不要とみなされ、理由もなく左遷させられました。
戦国時代は本当になにがあるかわからない時代だから一筋縄ではやっていけない厳しい時代だ
正則はわしがやった天下三名槍の一つ日本号を、
酒の席での賭けに負けて黒田長政の家臣母里友信にゆずったそうじゃ
その後は後悔したそうじゃ
このあたりが三成とあわんのじゃろな