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[5分でわかる!]歴史を動かしたキーパーソン小早川秀秋!!

戦国武将
ひろ
ひろ

小早川秀秋関ヶ原の戦いで裏切ったキーパーソンだね

徳川家康
徳川家康

秀秋の裏切りなくして徳川の勝利はなかったわけじゃ

ひろ
ひろ

秀秋は豊臣家と関係ある武将なのになー

どうして裏切ったのか見てみよう!!

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小早川秀秋の年表

ひろ
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豊臣秀吉の養子だから財力はあったんやな

徳川家康
徳川家康

財力や兵力はあるからこそ

関ケ原の戦いでキーパーソンとなるんじゃ

小早川秀秋。180cmくらいの大男といわれている。(高台寺蔵)

小早川秀秋の相関図

ひろ
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秀吉の妻ねねのかー

徳川家康
徳川家康

幼少のころは秀吉殿から寵愛をうけておったが

秀頼君が生まれると一転じゃ

小早川隆景。秀秋が「毛利家」にはいるのを阻止して「小早川家」にはいらせた。(米山寺蔵)

小早川秀秋の誕生

小早川秀秋こばやかわひであきは1582年、豊臣秀吉の正妻ねねの兄木下家定の五男として生まれました。つまり正妻ねねの甥。血縁が近かったために秀吉の養子として育てられ、羽柴秀俊はしばひでとしと名付けられます。秀吉に可愛がられたため中納言の位をたまわり、「金吾中納言」と呼ばれました。

ひろ
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秀吉の親戚だからちやほやされたんやな

秀秋の陣羽織「違い鎌」。敵をなぎ倒す意味が込められている。(東京国立博物館所蔵)

秀吉から遠ざけられる

秀吉と側室淀殿の間に秀頼がうまれ、うっとうしく思われた秀秋は遠ざけられてしまいます。そして秀吉は秀秋を小早川隆景に養子にだし、秀秋は筑前(福岡県)に転封。

徳川家康
徳川家康

秀吉殿は信頼していた小早川家に養子をだしたんじゃ

秀秋の初陣は朝鮮出兵でした。最初の出兵では拠点名護屋城の留守を任されただけで終わりました。

次の出兵では渡海軍の大将を任せられましたが、大将にかかわらず自ら刃をもって戦おうとしたといわれています。これには秀吉も秀秋に叱責し、所領を没収しようとしました。ところが、徳川家康のはからいで領土を没収されずにすみます。

ひろ
ひろ

家康に助けてもらったことで、恩を感じるようになったんやな

家康は関ケ原の戦いの随分前から秀秋に目をつけていたんかなー

岡山城。宇喜多秀家が築いた名城。(wikipedia)

天下分け目のうらぎり!!

豊臣秀吉がなくなったことで、再び天下は動き始めます。

秀秋は豊臣家との血縁関係があるために西軍に属していました。しかし東軍の黒田長政から何度も書状で勧誘されるうちに、東軍になびくようになります。

また秀秋は意地の悪い石田三成に対する嫌悪感があり、家康には助けてもらった恩や尊敬の気持ちがありました。そこで関ヶ原の戦いでは両軍に誓約書をかいて二股状態となります。

ひろ
ひろ

秀秋は板挟み状態で決めかねていたんやな

そして天下わけめの関ヶ原の戦いが起こると秀秋は見晴らしのいい松尾山の山頂に布陣。秀秋は動かず、両軍の戦況を眺めていました。

すると動かない秀秋に対して、三成は狼煙のろしをあげ、家康は秀秋の陣に向かって発砲。秀秋は家康の発砲に怯えてしまい、東軍に寝返ります。そして近くに陣取っていた大谷吉継の軍に攻め込みました。

この秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなり、東軍は勝利しました。

ひろ
ひろ

大谷吉継は秀秋が裏切ると思って、秀秋の横に陣取ったんだ

だけど秀秋が寝返えったから周りの武将も寝返ってしまい、敗れてしまったんやなー

秀秋の行動により東軍は勝利できたので、家康は秀秋に岡山藩50万石を与えました。ところが、大谷吉継に呪われたのか、関ヶ原の戦いの2年後になくなってしまいました。

大谷吉継の呪いを受ける秀秋。わずか21歳で亡くなった。
(月岡芳年画)

まとめ

小早川秀秋は武将としての能力は決して優れているとはいえません。とはいえ、秀秋の裏切りによって歴史は動き江戸幕府が誕生しました。

ひろ
ひろ

秀秋は酒癖も悪くて、借金癖もあったみたいやで

小早川秀秋。鍋好きだったと伝えられている。(wikipedia)

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