斎藤道三は有名な下剋上武将やな
道三は下剋上で成り上がったが
息子との合戦で亡くなってしもうたな
下剋上で成り上がり下剋上で散った武将!!
それでは斎藤道三の生涯をみてみよう!!
斎藤道三の年表
道三の生涯についてははっきりしていなくて、今も研究中やで
道三が次々と大名を追放して大名となったのはすばらしいなー
斎藤道三の相関図
次々と有力武将を追放して力をつけたんやなー
それに道三は娘を有力武将に嫁がせることで力をつけたんじゃ
斎藤道三の誕生
斎藤道三の生まれについてははっきりしていません。幼少のころに京都の寺に入門させられたそうです。
寺の生活に飽きたのか、燈油問屋の娘と結婚して油商人となります。油商人として売り歩いていたところ、美濃(岐阜県)の守護代長井長弘と出会い、気に入られて家臣となりました。
道三は武士に憧れがあったそうじゃ
道三は油売りを売るとき、パフォーマンスをしているんだ
漏斗を使わずに一文銭の穴に油を注いで、もし油が銭を汚したらお代はいただかないという芸やな
このパフォーマンスで道三は大成功したんや
城を乗っ取る!?
長弘によって道三は守護大名の土岐正頼、頼芸兄弟を紹介されました。弟の頼芸は道三のことを気に入り家臣とします。
兄の正頼は道三の顔が嫌いで家臣にしなかったという
正頼と頼芸は家督争いが勃発。道三は頼芸に味方して、政頼を敗走させます。
ところが、政頼は長弘を頼って、頼芸襲撃をねらっているという情報を道三は知ると、長弘を暗殺。稲葉山城を乗っ取りに成功しました。
そして美濃の守護斎藤利良がなくなると、家督をついで「斎藤」と称します。
道三は頭脳や度胸が人並み以上だったから美濃の国主にのし上がれたんじゃな
主君を滅ぼして全てを奪い去るのがマムシのようだから、「美濃のマムシ」といわれたんだね
信長を認める
道三のかつての主君頼芸は尾張(愛知県)に逃げ延び、道三によって追い出された政頼は越前(福井県)に逃げていました。
2人は仕方がないので協力して道三を攻め込もうとしましたが、政頼が病死したので、頼芸は侵攻を中止しました。
このとき2人は
「とんでもない油売りをひきいれてしまったなー」と後悔しただろうな
道三は隣国尾張の織田信長に娘濃姫(帰蝶)を嫁がせます。このとき信長がどんな武将であるかみたいということで信長と謁見しました。
そして「信長の風貌が天才の器であると認識し、斎藤家はいずれ信長にのみこまれる予見をした」といいます。
信長は青年の頃から一流の風貌やったんやな
また道三は息子義龍と不和でした。というのも「義龍は道三の子ではなく、頼芸の子ではないか」という疑惑が巻き起こっていたからです。
そのため親子での対立が激化し、長良川で道三は討ち死にしました。
道三に従う家臣が少なく、
殆どの部下が義龍に従ったというぞ
道三はあまり人望がなかったようじゃな
まとめ
斎藤道三は商人から一代で下剋上を成し遂げ一国城主となった武将です。
しかし、現代の研究では、下剋上を行なったのは道三の父親で、道三は二代目のボンボンではないかという説がでています。
道三のような下剋上を成し遂げる人物がたくさんいるのが戦国の世やなー
道三の辞世の句、
「命を捨てなければこの世のほかはなく、終の住み家などない」と
生への強い執着を感じられるのー