
滝川一益は織田四天王の中でもあまりパッとしない武将だね

一益殿は目立った活躍はしておらんが
信長殿のもとでしっかりと働いた武将じゃなー

鉄砲の達人だったというしなー
それでは滝川一益の生涯をみていこう!!
滝川一益の年表




甲賀生まれで忍者だったといわれているぞ


若い頃は各地を放浪していたら、
堺で鉄砲に出会ったそうじゃ


滝川一益の相関図




柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益を織田四天王というよ


一益殿は鉄砲隊と水軍で織田家を支えたぞ


(東京大学史料編纂所蔵)
滝川一益の誕生
滝川一益は1525年、近江の甲賀(滋賀県)の郷士農業を営む地侍の子として生まれました。このころ近江は六角家の支配下にあったため、滝川家も六角家の配下になっていたと考えられいますが詳細は不明です。
また一益の前半生についてはあまりわかっておらず、堺(大阪府)で鉄砲の製造や射撃の技術を学んだとされています。


この時に一益殿は鉄砲の技術を身につけたんじゃなー


(今源氏錦絵合 須磨 十二)
信長のもとではたらく
一益は織田家の重臣池田恒興の紹介により、織田信長と面会の機会を得ます。そして信長の前で火縄銃の腕前を披露すると、信長は一益の腕前を気に入り家臣に取り立てました。
その後、桶狭間の戦い後に徳川家康を説得して、信長と家康の同盟を締結。さらに伊勢攻めや本願寺との対立で武功をあげて活躍し、信長に認められます。
特に武田勝頼との長篠の戦いでは、戦国最強と謳われた武田騎馬隊を鉄砲隊で見事に撃ち破りました。このとき鉄砲隊を指揮したのは鉄砲をよく理解した一益でした。
その後も毛利水軍、有岡城攻めに参加して武功をあげ、また織田家因縁のライバル武田家を滅ぼすことに成功。


一益は戦場での駆け引きが得意で「退く滝川、進むも滝川」といわれたそうやで


(徳川美術館蔵)
本能寺からの転落
武田家を滅ぼした一益は武田家の領地分割を任せられ、信長から上野(群馬)、信濃(長野県)を与えられました。さらに関東管領にも任命され、まさに順風満帆の人生。


一益は領地よりも信長が所有していた名茶器「珠光小茄子」のほうが欲しかったというよ
一益が北条家と領土争いをしていると、本能寺の変が起こりました。
本能寺の変を知った北条氏政は、織田家の混乱に乗じて5万の大軍で一益の居城へ侵攻し合戦へと発展。この神流川の戦いで大敗を喫した一益は本拠地の伊勢(三重県)まで逃げ帰ります。
ところが北条家の追撃はしぶとく、一益は敗走に時間がかかり、信長の後継者を決める清洲会議に遅刻してしまいます。


清洲会議は重要な会議であるから
出席できなかった一益殿は織田家での地位を落としてしまったんじゃ
また清洲会議がきっかけで、豊臣秀吉と柴田勝家の対立がおこり賤ヶ岳の戦いが勃発。一益は勝家に味方するも、秀吉に敗れてしまいます。そのため所領をすべて没収され、蟄居させられてしまいます。


晩年、家康さんに武功をかわれて小牧長久手の戦いに参加するも、
往年の迫力はなかったというぞ


まとめ
滝川一益は信長に仕え、鉄砲隊を率いて武功をあげました。ところが、信長が本能寺の変でなくなると一気に勢いを無くしてしまいました。


本能寺の変によって織田家の武将はほとんど勢力を弱めてしまうんだね


(栗原信充作)