水野勝成は上級武士の長男に生まれながら
腕一本を頼りに諸国を放浪した武将!
勝成の破天荒ぶりは年老いても健在じゃったぞ
ずっと戦い続けているもんなー
それでは戦国の自由人・水野勝成の生涯をみていこう!
水野勝成の年表
わしは信長公から筑前守を授けられたわ
水野勝成の相関図
忠重も武勇に優れた武将で
一番槍をとって兄に譲ったほど
三方原の戦いでは家康の影武者を務めたそうじゃ
水野勝成の誕生
水野勝成は1564年、三河(愛知県)に水野忠重の長男として誕生しました。父・忠重の姉は徳川家康の母であるため、勝成と家康はいとこの関係です。
1579年、水野勝成は父に従って高天神城攻めを行いましたが、武田勝頼の撤退により合戦にはなりませんでした。同年、2度目の高天神城攻めでは、城兵全員が打ってでる大激戦となりましたが、勝成は16歳にして首級をあげています。
高天神城は武田にも徳川にも重要な拠点で何度も合戦が行われたんじゃ
この戦いの後、勝成は織田信長からは感状を賜ったそうだよ
父との仲違いから出奔!!
本能寺の変後の天正壬午の乱では、勝成は徳川家康に従って北条氏直と対峙。勝成は鳥居元忠らとともに先陣を切って北条へ攻め込み、100もの首級をあげました。
勝成は鳥居元忠に「抜け駆けするな」と抗議したみたい
小牧長久手の戦いでは、父ともに出陣。この時、勝成は眼痛のため兜を被らずに鉢巻を巻いていました。これをみた父・忠重は「兜を小便壺にでもするつもりか」と叱責。
これに対して勝成は、「父上とはいえあんまりだ、兜がないことで頭を割られてもそれは時の運である。1番首を取るか、取られるかみておけ」と言い放って、馬に乗って駆け出します。
そして、見事1番首をあげ、家康に褒められます。ところが父からは「先駆けは許さん」とまた怒りを買ってしまいました。
勝成と忠重は仲が悪いのー
その後は徳川家康に従い、合戦では真っ先に敵陣に乗り込んで暴れまわります。しかしその頃、父の家臣が勝成の素行の悪さを告げ口。勝成はそのことに怒り、その家臣を斬り殺してしまいました。激怒した父はどの家にも仕官できない奉公構として勝成を勘当してしまいます。
勝成を雇った家は水野家の敵と見なされるんじゃ
勝成はしばらく家康に匿われた後、京都へ向かいます。そして、仙石秀久のもとで四国攻めに出陣。ところが、豊臣秀吉から700石の知行を授かりながら、訳もなく逃亡。秀吉が刺客を放ったため、勝成は虚無僧となって各地を放浪します。
虚無僧となっていたときは野宿したり人から馬鹿にされたりしたみたい
そして、九州にたどり着いた勝成は佐々成政に仕えて、一揆鎮圧で武功をあげます。その後、成政が秀吉の命で蟄居されると、小西行長、加藤清正、黒田官兵衛、立花宗茂など主君を変えてゆきます。
その後、豊臣秀吉に謁見するため大坂に向かう黒田長政に付き従っていましたが、秀吉との諍いを思い出したのか、途中で逃げ出して再び放浪してしまいます。
長政と仲違いしたのか、秀吉さんと会いたくなかったのか
全く自由な人だな
そういえば藤堂高虎もたくさん主君を変えておったのー
父との和解
26歳から34歳までの勝成の消息は不明となり、数々の伝説が作られました。道場破りを行なったり、陶器職人となったりしながら各地を放浪していたといいます。最終的に備中(岡山県)の有力者・三村親成に雇われます。
このときに勝成は結婚して、長男を授かったそうだよ
豊臣秀吉が亡くなると、三村家を出て徳川家康のもとへ出向きます。これをみた家康は勝成と父・忠重の間をとりもち、和解を成立させます。ところが翌年、父が石田三成の手下・加賀井重望に暗殺されたため、勝成は刈谷城主に就任。
和解したのに、すぐに亡くなってしまったんじゃなー
虚しいのー
その後の関ヶ原の戦いの前哨戦では、猛将・島津義弘を追い払い、大垣城の戦いでは福原長堯を降伏させました。このとき、父を暗殺した加賀井重望の息子を処刑しています。
父の仇を討ってるとこをみると
しっかり仲直りしていたんやなー