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最後の最後で豊臣方を裏切った?片桐且元の苦悩とは?

戦国武将
ひろ
ひろ

片桐且元は豊臣家に仕えていた忠臣だったけど

大坂の陣がはじまった頃に追い出された武将だな

織田信長
織田信長

方広寺鐘銘事件のせいで豊臣家から追放されてしもうたんじゃの

ひろ
ひろ

事件の責任を取らされたのかな?

それでは片桐且元についてみていこう!

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片桐且元の年表

ひろ
ひろ

且元は「秀吉の時代」にあまり出世できなかったんだなー

織田信長
織田信長

やはり、内政より合戦で活躍するするものが出世できるからのー

片桐且元。秀吉からは助作と呼ばれていた。(大徳寺玉林院所蔵)

片桐且元の相関図

ひろ
ひろ

且元は浅井三姉妹大野治長とは幼馴染なんだな

織田信長
織田信長

この頃から信頼関係はできていたんじゃろな

淀殿。豊臣家の運命を背負い、秀頼に指示を出した。
(奈良県立美術館所蔵)

片桐且元の誕生

片桐且元は1556年、浅井長政の家臣・片桐直貞の長男として誕生。1573年、織田信長による小谷城攻めが起こるも、父・直貞は最期まで主君の浅井長政に仕えています。且元も浅井方の武将として戦い、浅井三姉妹や大野治長と共に落城を経験しています。

ひろ
ひろ

小谷城から落ち延びた浅井三姉妹大野治長は秀吉によって保護され

のちの大坂城落城も経験するんだな

大野治長。幼馴染の淀殿とは仲が良く、秀頼の実の父親ではないかといわれている。(大坂夏の陣図屏風)

秀吉に仕官

浅井家の領土は豊臣秀吉のものとなったため、且元は秀吉に仕官しています。1583年に秀吉と柴田勝家が起こした賤ヶ岳の戦いで、且元は「賤ヶ岳の七本槍」の一人に名を連ねました。そして、摂津(大阪府)に3千石を賜りました。

織田信長
織田信長

賤ヶ岳の七本槍には加藤清正福島正則がいるのー

秀吉が関白に任命されると、且元は東市正ひがしいちのかみに任命されて豊臣姓を賜っています。また九州攻めでは物資の調達、丹羽(京都府)の検地、朝鮮出兵の補給を任せられるなど、豊臣政権では奉行を担当しました。

ひろ
ひろ

合戦より内政を担当した武将なんだなー

且元があまり知られていないのは、地味な役割を担っていたからだろうな

豊臣秀吉。秀吉は生涯数多くの合戦を繰り広げたが、勝率はかなり高かった。(高台寺蔵)

豊臣家の家老になるも、、、

秀吉亡き後、豊臣秀頼補佐役に任命され、豊臣家重臣の立場を手にします。ヶ原の戦いでは西軍の将として戦いましたが、徳川家康の勝利がわかると戦勝を祝って長女を人質に出しています。これは、秀頼と家康の関係が悪化しないようにと且元が自ら考えた事でした。

ひろ
ひろ

このころ淀殿からの信頼もあつくて

秀頼の親代わりになってほしい、且元の忠節は命ある限り忘れることはない」と手紙に記しているよ

織田信長
織田信長

豊臣家徳川家の取り次ぎ役は且元ただ1人だったようじゃ

1614年、家康は「豊臣家が建立した方広寺の鐘に不適切な表現がある」と難癖をつけてきました。且元は誤解を解くため家康の駿府城へ出向きます。長々と待たされたにも関わらず、家康との会見が叶わず、豊臣家への無理難題を押し付けられただけでした。

それは、以下のようなものです。

豊臣秀頼に江戸への参勤交代を命じる

淀殿を人質として江戸に住まわせる

秀頼が大坂城から退城する

且元が大坂方にとって不利な条件だけを持って帰ってきたことに疑念を感じた淀殿と秀頼は、信頼している淀殿の乳母・大蔵卿局おおくらきょうのつぼねを家康のもとに送り込みます。彼女が家康のもとへ出向くとすぐに会見に成功し、方広寺の件も特に詰問されませんでした。これは、家康は大蔵卿局と且元との対応を分けることで、大坂方を混乱させて疑心暗鬼に陥れる作戦でした。

家康の狙い通り、「秀頼や淀殿は且元が徳川方と内通しているのではないか」と疑いはじめます。そして、淀殿が且元の殺害を計画していると知ると、且元は大坂城から退城して屋敷に引きこもってしまいました。

ひろ
ひろ

裏には豊臣家重臣大野治長且元権力争いがあったようだよ

結局、且元は大坂の陣では徳川方として参戦し、秀頼と淀殿の助命のため奔走しましたが、失敗してしまいます。その後、京都の屋敷で病に臥せてしまい、大坂城落城から20日後に亡くなってしまいました

織田信長
織田信長

ではなく、自害ともいわれておる

豊臣秀頼。秀頼自身が且元のことをどのように考えていたかは不明。(養源院蔵)

まとめ

片桐且元は唯一の豊臣家と徳川家を繋ぐ取次役であったために、秀頼や淀殿から謀反を疑われてしまいました。大坂城を後にした且元は徳川家に従い、大坂の陣に出陣。片桐家は大和1万石の大名として明治まで存続しました。

ひろ
ひろ

且元は最終的に秀頼を裏切って家康に味方したから

批判的な味方をされることが多いよ

片桐且元。晩年は、家康から送られてきた医師の治療を受けた。(太平記英勇伝七十五)

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