佐竹義宣はあまり有名ではない戦国武将だけど
関ヶ原の戦いで石田三成との友情を大切にしたことが知られているね
佐竹家は豊臣の家臣であったからのー
三成と繋がりがあったんじゃ
でも父親に反対されて関ヶ原の戦いには参戦できなかったとか
それでは佐竹義宣の生涯をみていこう!
佐竹義宣の誕生
佐竹家は清和源氏の流れを汲んでいて
常陸北部を支配する有力豪族だったよ
それに武田信玄の甲斐源氏と同族でもあるんじゃ
佐竹義宣の相関図
義宣の母は伊達晴宗の娘で
伊達政宗は母方のいとこやな
晴宗は政宗の祖父じゃな
佐竹義宣の誕生
佐竹義宣は1570年、常陸(茨城県)に佐竹義重の長男として誕生。義宣が3歳のときに、父・義重が敵対していた那須氏と和睦。その条件に那須資胤の娘を義宣の妻とすることになりました。彼女は後に義宣の正室となり、正洞院と名乗っています。
わずか3歳で結婚が決まるなんて!
豊臣政権の六大将!!
父・佐竹義重は関東地方や東北地方の大名と合戦を繰り返していましたが、伊達政宗や北条氏政の勢力拡大に危機を感じていました。そこで、天下人・豊臣秀吉に助けを求め隠居。家督を義宣に譲ります。
これ以来、義宣は豊臣に従う大名と親交を深めてゆきます。その中には上杉景勝や石田三成などがいました。
秀吉に従うと同時に代替わりもしたんだなー
関白となった秀吉は全国の大名へ私的な合戦を停止するように惣無事令を発布。しかし、伊達政宗や北条氏政はこれに従いませんでした。これに怒った秀吉は小田原征伐を開始します。義宣もこれに従い、石田三成とともに忍城攻めを行いました。忍城攻めは失敗に終わったものの、義宣は秀吉から常陸と下野(栃木県)を安堵され、54万石の大名となります。そのため、佐竹家は徳川、前田、毛利、上杉、島津に継ぐ豊臣政権の六大将の地位を得ました。
宿敵・伊達政宗と支配権を争っていた地域も手に入れたよ
伊達政宗や徳川家康の監視のために
親豊臣派の武将に力をつけさせたんじゃろな
三成との義理を貫く
1597年、佐竹家の与力大名である宇都宮国綱に世継ぎがいなかったため改易となります。これに伴い、佐竹家にも処分がくだるはずですが、石田三成の取り成しにより免除されています。
このことで、義宣は三成に恩を感じるようになったんだな
豊臣秀吉が亡くなると、加藤清正や福島正則などの武断派大名と石田三成や小西行長などの文治派大名の対立が激化してゆきます。彼らを取りまとめていた前田利家が亡くなったことにより、福島正則ら武断派による石田三成襲撃事件が勃発。事件の知らせを聞いた義宣は三成を女輿に乗せて奪取させ、徳川の屋敷に保護を求めました。
義宣は三成に
「治部(石田三成)が死んでは生き甲斐が亡くなる」と言ったそうだよ
その後、石田三成と徳川家康は関ヶ原の戦いを起こします。義宣は三成との義理を貫くために西軍に従おうとするも、父・義重はこれに反対。いまだに義重の発言力が大きかったために、義宣は軍を動かすことができず、関ヶ原の戦いに出陣できませんでした。
西軍と東軍のどっちつかずの状態じゃな
戦後、義宣は徳川家康のもとへ出向き謝罪。家康から「佐竹義宣ほどの律義者は見たことがない」と評されました。しかし、2年後の国替えで常陸54万石から秋田20万石へ減封されてしまいます。これは、関ヶ原の戦いに出陣しなかった佐竹家には大きな兵力があるとして、江戸から遠ざけられといわれています。
義宣は秋田に移ってからは内政面で手腕を奮ったそうじゃ
そして大坂の陣が起こると、義宣は徳川方として出陣。後藤又兵衛や木村重成などと激戦を繰り広げ、上杉景勝らの援軍を受けて豊臣方を退けています。この功績が認められて、幕府から感状を5つも賜っています。その後、義宣は秋田で内政を充実させたことから、将軍・徳川秀忠から全幅の信頼を寄せられました。
感状をもらったのは12名だったから佐竹家内に5名もいたのは異例だよ