日光東照宮は家康さんのお墓がある神社だな
わしは跡取りの秀忠に遺体を日光に祀るように遺言したんじゃ
どうして日光なんだろう?
今回は徳川家康のお墓が日光にある理由を見ていこう!
徳川家康とは?
徳川家康は約100年続いた戦国時代に終止符を打ち、260年ほど続く江戸幕府を開いた武将。
幼少期は織田家や今川家の人質として過ごし、大名となっても領内での一揆や武田信玄や豊臣秀吉などの有力武将の脅威にさらされました。天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利をおさめると、その3年後江戸幕府を開いて太平の世を築きました。
最後の最後でわしが天下を取ったんじゃ
三英傑の天下取りの様子を表すこととして
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」
ってゆう歌があるよね
そもそも日光とは?
日光東照宮は奈良時代、勝道上人が二荒山にある中禅寺湖の湖畔に神宮寺を建立したことから始まりました。
「日光」という名前は二荒山を訓読みにすると「にっこうさん」になることから付けられたといいます。鎌倉時代になると、500以上もの寺院が建ち並び、山岳信仰の霊場として栄えます。
鎌倉時代は山伏修行の聖地だったわけか
ところが戦国時代にはいると、日光を管理していた北条家が豊臣秀吉によって滅ぼされてしまったため、日光は衰退してしまいます。
その後、徳川家康が自身の遺体を祀る場所として日光を選んだことにより、再び日光は栄えはじめました。現在では世界遺産にも登録され、多くの観光客が訪れています。
日光東照宮にはたくさんの動物の彫刻があるけど、
これは江戸時代が平和な世であることを象徴しているみたい
眠り猫は警戒心の強い猫が眠るほど平和な世の中ということじゃ
家康が日光を選んだ訳とは?
徳川家康は亡くなる間際、
「遺体は駿河(静岡県)の久能山に葬り、一周忌を過ぎたら下野(栃木県)の日光山に小堂を建てて勧請せよ」
と遺言。
久能山は徳川家康が生まれた岡崎と隠居地の駿府を結ぶ線上にあります。この線は太陽が昇って沈む線上にあるため「太陽の道」と呼ばれています。
さらに富士山は「不死」を意味しています。久能山で埋葬された家康が生き返り、富士山を越えて日光にたどり着くことで永遠の存在となると家康は考えたのでしょう。
また日光は江戸(東京都)から見て真北にあり、不動の北極星の位置から幕府と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。
これらの理由から、家康は日光東照宮に祀られることを選んだといわれています。
戦国武将は占いとか天気とかを結構気にしていたらしいよ
翌年、遺言をもとに息子の徳川秀忠が日光東照宮を建立しましたが、当時の日光東照宮は簡素な造りだったといいます。現在のような絢爛豪華な建物になったのは、孫の徳川家光が大規模な造替を行なったからです。
家光は将軍の座を家康から指名されたため、祖父家康を非常に尊敬していました。そのため、日光東照宮に10回も参拝。日光東照宮の改築には、江戸だけでなく京都や大坂などから大工を呼びつけました。その総勢のべ168万人、総工費は現在の価格で300億円もかかったといいます。
日光の建築美がすごすぎて
「日光を見ずして結構ということなかれ」
という言葉ができたぞ
わしが生きている間に、3代目将軍を指名しておいたんじゃ
そうすればお家騒動は起きんじゃろ
徳川家康の専属僧侶・南光坊天海が日光を進めたという話もあるぞ