天海は徳川家康専属のお坊さんやな
家康が亡くなるときには遺言を聞いたらしい
伝えられている話では108歳まで生きたといわれているで
その天海の正体が明智光秀といわれておるんじゃな
天海の正体は謎ばかりだけど
正体が明智光秀だという根拠がいくつかあるからみてみよう!!
根拠1:光秀が山崎の戦いで殺されていない!?
豊臣秀吉と明智光秀との山崎の戦いが起こったのは夏の暑い時期だったといわれています。そのため討ち取られた光秀の首が夏の暑さで傷んでしまい、本人確認が不十分であったといわれています。
つまり光秀の影武者の首が秀吉の前に献上され、光秀は助かって生き延びたという説です。
戦国大名にはたくさんの影武者がいたというしなー
あの真田幸村には数十人以上の影武者がいたらしい
根拠2:比叡山に光秀の文字!
明智光秀は比叡山のある近江(滋賀県)に領地を与えられており、信長の家臣時代から比叡山とは繋がりがありました。比叡山が焼き討たれ後は僧たちの面倒をみたといいます。
また天海は比叡山探題執行に命じられて、比叡山の再興に尽力しました。
探題とは天台宗における重要な位のことじゃ
そんな中本能寺の変以降、比叡山に「光秀」の名前で寄贈された石碑が存在するのです。これは光秀が天海となって比叡山再興に力を尽くし、また石碑も寄贈したのではないかと思わせるような説です。
「光秀」という字が「みつひで」と読むとは限らないんだよなー
根拠3:日光に明智の文字
天海が「明智」の名前を残すため、徳川家康のお墓がある日光に「明智平」という地名をつけたといわれています。
家康の墓の近くに自分の名前をつけるのは大胆な行動やな
根拠4:春日局は光秀と関係がある!?
徳川家光(3代目)の乳母春日局の出生は、光秀の重臣斎藤利三の父です。山崎の戦いで、光秀が敗れると父利三も捕まって処刑されています。
当然春日局も追われますが、なんとか生き延びました。
その後の浪人時代に何をしていたのかははっきりしていませんが、浮浪していると乳母の募集を見つけて江戸城に就職したといわれています。
光秀の家臣の子である春日局を乳母にすることを徳川家が認めていることになるため、家康が天海の正体を知ってなのかという説です。
さらに光秀の重臣溝尾茂朝の孫三沢局も徳川家綱(4代目)の乳母として江戸城で働いていました。徳川家と光秀の関係を示唆しているように思えます。
乳母は母親の代わりに子どもを育てる係じゃ
乳母になるにはしっかりとした出自が必要なんじゃぞ
根拠5:不可解な戦後処理
豊臣秀吉と明智光秀は本能寺の変の後に山崎の戦いを起こしました。そのとき諸大名たちはどちらに味方するのか迷っていました。
このとき京極高次は光秀に味方し合戦後は敗れて逃亡していましたが、関ヶ原の戦いの前哨戦では東軍について西軍と戦を繰り広げました。ところが高次はこの前哨戦で敗れたものの、関ヶ原の戦いのあと家康から若狭小浜藩(福井県)を与えられています。
高次は前哨戦で大津城に籠城して西軍と争ったんやで
また筒井順慶は光秀の寄騎であったにも関わらず、山崎の戦いで味方せず合戦を傍観していました。そして順慶の跡を継いだ定次は関ヶ原の戦いで東軍に味方して伊賀(三重県)に所領をもらいますが、すぐに難癖をつけられて改易させられました。
改易とは武士の身分を剥奪されることやな
さらに光秀の孫にあたる織田昌澄は大坂の陣で豊臣方に味方しましたが、処刑されず助命されています。
豊臣方に味方したほとんどの武将が亡くなっているのになー
変やなー
まとめ
本能寺の変の後の山崎の戦いで討ち取られた明智光秀が生き延びて僧侶天海になったという話です。
この説は本能寺の変の黒幕が徳川家康であれば、かなり辻褄の合うような話ではないでしょうか?家康が自分のために謀反をおこしてくれた光秀をかばっているようにもみえます。
説を証明する新たな証拠がでるといいな!