戦国時代にキリスト教が伝来して日本にもたくさんのキリスト教徒が生まれたよなー
キリスト教に対して寛容なやつもいれば
厳しいやつもおったのー
それでは敬虔なキリシタン大名を5人紹介していくよ
高山右近
近畿地方の大名高山右近。右近の信仰心は群を抜いています。右近は、12歳の時に父の影響を受けてキリスト教に入信。洗礼名を「ジュスト」とします。
織田政権下では、多くのキリシタンが安土城下に住んでいましたが、本能寺の変が起こると、多くのキリシタンは高山右近の居城高槻城の城下町に住うようになりました。
右近は合戦で深い傷を負って2ヶ月間生死を彷徨ったんじゃが、生き返ったんじゃ
この経験によりキリスト教へ深く信仰していくようになるんじゃろな
秀吉がバテレン追放令を出すと右近は国外追放となりますが、前田利家に助けられて金沢(石川県)に移り住みます。江戸時代になるとさらに弾圧が厳しくなり、右近はフィリピンへ追放されますが、熱病にかかってわずか40日で亡くなってしまいました。
金沢城下ではクリスマスパーティを行ったそうじゃ
フィリピンでは右近の名前が知れ渡っていて、国賓として歓迎されたよ
小西行長
商人から武将へと出世を果たした小西行長。行長は父に影響されて幼い頃にキリスト教に入信し、洗礼名を「アウグスティヌス」とします。行長は石田三成と仲が良く、参謀として豊臣政権を支えました。そして、肥後(熊本県)南部を領土し、領土内には多くのキリスト教徒が住まいました。
ところが関ヶ原の戦いで敗れると、肥後の国は加藤清正のもとのとなります。清正は熱心な日蓮宗であったため、すぐに改宗を迫ったといいます。
行長は関ヶ原の後自害を迫られたけど
キリシタンは自害できないと拒否したというよ
蒲生氏郷
織田信長、豊臣秀吉に認められた蒲生氏郷。会津若松城を築いたことでも有名。氏郷は高山右近と仲が良く、右近にすすめられてキリスト教に入信。洗礼名を「レオン」をとします。
氏郷はイタリア人宣教師を家臣として、ローマにまで使節団を送ろうとしたほど。氏郷は死に際、枕元に聖像を掲げて罪を懺悔し、最期まで聖像に向かって祈りを捧げたという。
氏郷の死に際には右近が駆けつけたというよ
大村純忠
日本で最初にキリシタン大名となった大村純忠。純忠はポルトガルと貿易を行うため、28歳のときキリスト教に入信し、洗礼名を「バントロウ」と名乗ります。
最初こそ、キリスト教への信仰心はあまりませんでしたが、日に日に信仰心を強め、毎日祈りを捧げる敬虔なキリシタンとなりました。純忠は領民にキリスト教を信仰するように励行し、領民の6万人が入信したといいます。
入信しないものには無理矢理改宗させるか
奴隷としてポルトガルに売っ払ったんじゃ
純忠は龍造寺家の配下となりますが、信仰心を保ち続け、イエズス会に長崎港をプレゼントしています。さらに大友宗麟と協力して甥のミゲルをローマへと派遣しました。
ローマへの派遣を天正遣欧少年使節というよ
大友宗麟
キリシタン大名といえば大友宗麟。22歳の時にフランシスコザビエルと謁見しましたが、すぐには入信しませんでした。入信したのは、49歳のときで、洗礼名を「ドンフランシスコ」とします。
はじめは信仰心からキリスト教に入信したのではなく、領土内での宣教師の布教活動を支援するみかえりとして、最新の軍需品や南蛮貿易を行うため、キリスト教に入信しました。
宗麟は海外から武器を仕入れることで
毛利家や島津家と互角に戦ったんだよ
キリスト教を信仰しているうちに信仰心が大きくなっていき、「キリスト教国家」の建設を目指しました。ところが島津家に攻め込まれてその夢は潰えました。
宗麟は宣教師から「九州王」と呼ばれていたんじゃ
まとめ
江戸時代になるとキリシタンは次々と迫害され、日本にはほとんどいなくなりました。
キリシタンは漢字で「吉利支丹」と書きますが、江戸時代になると「切支丹」や、「切死丹」などと、軽蔑の意味が込められるようになります。
江戸時代にキリスト教を信仰していた人は恐ろしい処刑によって亡くなったよ