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キリシタン大名には裏があった!?

戦国武将
ひろ
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キリシタン大名といえば大友宗麟やな!

豊臣秀吉
豊臣秀吉

大友家は鎌倉時代からの名門で

宗麟は北九州の覇者でもあるからのー

ひろ
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でも宗麟は好き勝手しすぎて失墜したんだよなー

それでは大友宗麟の生涯をみていこう!!

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大友宗麟の年表

ひろ
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キリスト教のイメージが強いけど

キリシタンになったのは49歳のときなんやな

豊臣秀吉
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晩年はうまく版図を広げられず

わしのもとに助けをもとめたのー

大友宗麟の相関図

ひろ
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宗麟の周りには有力な戦国大名が多いなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

宗麟は立花道雪などの優秀な家臣に恵まれたから

勢力を拡大できたんじゃろな

大友宗麟の誕生

大友宗麟おおともそうりんは1530年、豊後(大分県)に大友義鑑よしあきの長男として生まれました。よく知られている「宗麟」は法号であり、本名は「義鎮よししげ」といいます。

宗麟は子どもの頃、気性が荒くて乱暴であったため、家臣からの人望が乏しく父義鑑から嫌われていました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

それに宗麟は女ぐせがわるくて夫婦仲は相当悪かったらしいぞ

そこで義鑑は宗麟ではなく三男の塩市丸を大友家の当主にしようとしていました。これに反対した宗麟派の家臣たちは義鑑と塩市丸を討ちます。

そして宗麟は反対派の家臣を抑え込んで、無事に大友家の家督を継ぎました。

ひろ
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このお家騒動は「二階崩れの変」といわれていて

大友家の屋敷の二階でおきた出来事にちなんでいる

放蕩者であったが幼い頃から天下統一をめざしていた

九州王として君臨

1551年に周防(山口県)の大名大内義隆が家臣陶晴賢すえはるたかの裏切りによって亡くなると、宗麟は弟大友晴房に大内家を継がせます。そして宗麟は大内氏の領土である、豊前、筑前(福岡県)で領土を拡大していきました。また将軍足利義輝に献金して、豊前と筑前の守護に任命されます。

ところが毛利元就厳島の戦いで陶晴賢を討つと、宗麟は元就の謀略に苦しめられ領土を広げられませんでした。

ひろ
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宗麟は元就との門司城の戦いに敗れると出家してしまったんや

その後、宗麟は今山の戦いで元就と手を組んだ龍造寺隆信に大敗してしまいます。

ところが元就が亡くなると、一転して北九州の武将は大友家に従うようになり、宗麟は北九州6カ国を支配することに成功しました。

このことから当時の宣教師たちから宗麟は「九州王」と呼ばれまれていました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

宣教師ルイス・フロイスは宗麟を

「日本の大名の中で一番考えが深くて聡明で叡智のある人」

とべた褒めしたそうじゃ

臼杵城、宗麟が築いた明治維新まで存在した

キリシタン大名となる

宗麟は戦があまり好きではなかったのか、家督を息子義統よしむねにゆずります。そして49歳のときキリスト教に目覚めて洗礼受けました。

ひろ
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洗礼名はドンフランシスコというで

22歳のときにザビエルと謁見してから随分たって入信したんやな

宗麟は宣教師の布教活動を支援する代わりに最新の軍需品を譲ってもらい、また南蛮貿易を行い莫大な富を得ていました。そのため宗麟はキリシタンでない大名と互角に渡り合えました。

実際、宣教師は反キリスト教の毛利家や島津家とは貿易を一切行っていません。宗麟は生き残るためにキリスト教を信仰したのかもしれません。

豊臣秀吉
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宗麟の名はローマまで知れ渡っていたといわれておる

ひろ
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宗麟はキリシタンとしてローマに使節団を派遣してるもんなー(天正遣欧使節団)

外国から輸入した大砲、その威力から「国崩し」といわれた

キリスト教の王国を夢見るも、、、

宗麟には大きな夢がありました。

それは「キリスト教の国家の建設」でした。

そこで宗麟は日向(宮崎県)に侵攻しますが、島津義久との耳川の戦いに大敗してしまいました。

ひろ
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宗麟は合戦に参加せず、戦を家臣たちにまかせてお祈りしていたというぞ

その後国内は荒れ、家臣や北九州の大名たちは反乱を起こし、大友家は滅亡しそうになります。

そのため宗麟ははるばる大坂まで出向き、天下人豊臣秀吉に助けを乞い、秀吉に従うことでなんとか豊後一国は死守しました。

最期は秀吉の九州攻めの途中で病死してしまいました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

宗麟は戦国大名として築きあげたもののほとんどを失ってしもうたな

大友家の家紋、九州の大名の憧れ、有力な大名はこの家紋に切り替えた

まとめ

大友宗麟は宣教師と仲良くすることで、南蛮貿易で資金を手にいれ、最新の武器を輸入することで勢力を拡大した大名でした。

ところが晩年は私生活のみだれからか、次々と合戦に敗れてしまい大友家は失墜してしまいました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

商売で財をなすのは重要じゃな

信長公も楽市楽座で富を得ていたしのー

宗麟の茶道具、
博多の商人などから茶器を財と労力を惜しまず収集していた

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