
ひろ
鍋島直茂は「肥前の熊」として恐れられた龍造寺隆信の家臣として有名な武将やなー

直茂は龍造寺家の忠実な家臣であったが、主君が亡くなったことで徐々に力をつけてゆき
一国の大名までに成り上がった武将なんじゃ

主家を乗っ取った武将ともいわれているしなー
それでは鍋島直茂の生涯をみていこう!
鍋島直茂の年表




次男に生まれたからすぐに養子だされたのか


お家騒動を防ぐために、戦国時代ではよくあったことじゃなー


鍋島直茂の相関図




隆信の生母であり、直茂の継母である慶誾尼は男勝りな性格だったいうよ


今山の戦いでは、兵士たちを叱咤して士気をあげたというしなー
また、92歳とかなりの長寿だったんじゃよ


鍋島直茂の誕生
鍋島直茂は1538年、肥前(佐賀県)に鍋島清房の次男として生まれました。次男だったため、一度幼い頃に養子に出されています。ところが、この頃北九州で覇権を握っていた小弐家により、主家の龍造寺家が滅亡の危機に陥ると、直茂は肥前に戻って龍造寺隆信に仕えるようになります。
また直茂の実力をみた龍造寺隆信の母慶誾尼は、直茂の父清房と結婚して直茂と隆信を義兄弟としました。


直茂と隆信は仲がよく、「龍造寺の仁王門」と呼ばれていたそうだよ


龍造寺隆信の右腕として
主君龍造寺隆信が肥前統一を果たすため、直茂は様々な合戦に出陣しました。
1570年、北九州の大名大友宗麟と対立し、合戦へと発展。宗麟の弟が龍造寺家の居城である佐賀城を包囲します。城を包囲した大友軍は龍造寺軍に比べるとかなりの大軍であったためにかなり油断しており、戦場近くで宴会を開いていました。


大友軍6万に対して、龍造寺軍5千と
10分の1以下だったというぞ
それをみた直茂はいまこそ奇襲攻撃を仕掛ける絶好の機会と考え、主君隆信に進言。そして直茂は先陣をきって大友本陣を攻め込んで合戦に勝利します。
この勝利により、龍造寺家内における直茂の地位は不動のものとなり、隆信の右腕として重宝されるようになります。


その後も合戦では先陣をきって活躍し、
龍造寺家は肥前統一を成し遂げたよ


主君にかわって佐賀藩主となる
主君である龍造寺家は「五州太守」と呼ばれるようになったころ、勢力を拡大していた薩摩(鹿児島県)の大名島津家と対立するようになります。そして、隆信は島津家と沖田畷の戦いを起こしました。
龍造寺軍のほうが数の上では有利であったにも関わらず、隆信は油断してしまい討ち死にしてしまいます。


今回は数が多いから油断してしまって負けたんか、、、
歴史は繰り返されてるなー
隆信を跡を継いだのは龍造寺政家でしたが、病弱であったため、政家や重臣たちの勧めにより直茂が龍造寺家の実権を握るようになります。
勢力を拡大していた豊臣秀吉が島津家を滅ぼすべく九州攻めを行うと、直茂はすぐに秀吉に従い戦功をあげました。そして、秀吉から龍造寺家に変わって肥前を任せられるようになります。


直茂は島津家に従っているふりをして、秀吉殿に内通しておったんじゃ
外交術にも長けたやつじゃなー
その後の朝鮮出兵では、直茂が龍造寺軍を率いて合戦に参戦。事実上の鍋島軍となり、直茂は徐々に龍造寺家を侵食していきます。関ヶ原の戦いでは、西軍の将として出陣していましたが、徳川家康の書状により東軍へと寝返ると、隣国の大名・立花宗茂の居城へ侵攻。直茂はこの功績が認められ佐賀藩・初代藩主となります。


江戸時代の初期はまだ龍造寺家と鍋島家の両家で佐賀をおさめていたんだ
龍造寺高房は実権を取り戻そうと幕府に働きかけました。ところが、幕府は直茂を佐賀藩の藩主として認める意向を示します。
そこで、龍造寺高房は直茂の長女を殺害して、自身は自殺しようとしました。直茂は高房の自殺を食い止めましたが、高房の精神は次第に悪化してゆき亡くなってしまいます。高房が亡くなったことで、直茂は完全に龍造寺家を乗っ取ることに成功しました。


直茂は81歳で亡くなったけど、そのとき耳には大きな腫瘍ができて悶絶しながら亡くなったというよ
これを高房の亡霊の仕業ではないかといわれているよ


まとめ
鍋島直茂は主君・龍造寺隆信の忠臣として、合戦で活躍することで出世していった武将でした。ところが、隆信が亡くなると徐々に龍造寺家を侵食していきました。そして目立った謀反を起こすことなく龍造寺家を乗っ取ることに成功し、佐賀藩・藩主にまで成り上がっています。


ほとんど、血を出すことなく主家を乗っ取ったことを「鍋島化け猫騒動」といって、
歌舞伎などで演じられたみたい

