脇坂安治は賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人として数えられた武将だな
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋とともに裏切っておるぞ
それでは、世渡り上手な脇坂安治の生涯をみてみよう!!
脇坂安治の年表
脇坂安治は目立った活躍はしていないけど
地道に出世を重ねていて
お家を存続させた武将だなー
そうじゃなー
細く長く生き延びたのー
脇坂安治の誕生
脇坂安治は1554年、脇坂康明の長男として近江(滋賀県)に誕生しました。父の代に藤原から脇坂と名乗り、浅井長政に仕えていました。長政が亡くなると、明智光秀の配下となっています。黒井城の戦いでは、「丹波の赤鬼」と称された敵方の猛将・赤井直正から武勇を誉め讃えられるほどの活躍をしました。
赤井家の家宝・𧲸の革(槍の矛先につける鞘)も譲ってもらっている
猛将・脇坂安治
1576年頃に、安治は豊臣秀吉に頼み込んで家臣となります。三木城攻めや神吉城攻めで武功を挙げながら、徐々に出世してゆきます。
早い段階からわしに仕えていたんじゃ
賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家の甥・柴田勝政を討ち取る功績を挙げ、福島正則や加藤清正らともに賤ヶ岳の七本槍の一人に数えら、山城(京都府)に3000石を与えられています。
福島正則は安治が功績を認められていることを不満に思っていたようだよ
安治は水軍の名将としても知られています。文禄の役では、豊臣政権下で水軍を指揮していた、九鬼嘉隆、加藤嘉明とともに水軍を率いて、朝鮮水軍と激突。ところが、安治は手柄を立てようと抜け駆けし、単独で李舜臣率いる朝鮮水軍に突撃するも、大敗してしまいます。しかし慶長の役では、再び水軍を率いて出陣し、加藤清正を救援しています。
抜け駆けはよくないぞ
李舜臣は韓国では英雄としてドラマなどで描かれていて
悪役に脇坂安治が登場するから韓国では知名度のある武将とか
関ヶ原での裏切り!?
豊臣秀吉が亡くなると、安治は次の主君として目をつけたのが徳川家康。安治は家康に従って東軍の将として出陣しようとしていましたが、石田三成に阻止されて西軍として関ヶ原の戦いに出陣することになってしまいます。
三成にかなり説得されたみたい
安治は東軍として戦うことを望んでいたため、小早川秀秋の手前に陣取ります。そして、関ヶ原の戦いが始まると、小早川秀秋の裏切りに便乗して、安治も裏切って西軍を壊滅に追い込んでいます。家康には寝返ることを伝えていたため、所領は安堵されました。
関ヶ原の戦いで裏切った者は数年のうちに亡くなっているけど
安治だけは長いこと生き残ったんじゃ
大坂の陣の頃には隠居し、次男の脇坂安元が出陣しています。その後は京都でのんびりと暮らして当時としては珍しい73歳で大往生を遂げています。
安治は「中書さま」というニックネームを付けられていたから
安治が屋敷を置いた周辺は「中書島」という地名がついたよ
まとめ
脇坂安治は仕えるべく主君を見極めることがうまく、世渡り上手な武将といえるでしょう。そのため、関ヶ原の戦いで裏切った後も生き残っています。
また、次男の安元は譜代大名の堀田安政を養子に迎え、脇坂家は譜代大名へと昇格。脇坂家は明治まで続く名家として存続しました。
安治の世渡り上手は
次男の安元にも受け継がれているなー