竹中半兵衛は秀吉さんに仕えた天才軍師やな!
まだわしが信長公に仕えていたとき、半兵衛はわしのことを支えてくれたんじゃ
若くして亡くなったのは惜しいのー
半兵衛は36歳の若さで亡くなったもんなー
それでは軍師・竹中半兵衛の生涯をみていこう!!
竹中半兵衛の年表
信長の美濃侵攻を食い止めたのか
半兵衛は美濃侵攻のとき
スパイにきた前田利家の正体に気づかないふりをして、逆に利家から情報を聞き出したというぞ
これが「知らぬ顔の半兵衛」の語源になったんじゃ
竹中半兵衛の相関図
龍興は半兵衛のことを大切にしておくべきやったな
半兵衛と官兵衛は盟友じゃが
実際には2年くらいしかともに合戦に参加していないんじゃ
竹中半兵衛の誕生
竹中半兵衛は1544年、美濃(岐阜県)に竹中重元の長男に生まれました。本名は竹中重治といいます。半兵衛は父とともに美濃の岩手山城を攻略して、菩提山城を築いて竹中家の居城としていました。
ところが半兵衛が17歳のとき父・重元が亡くなったため、竹中家の家督を継ぎ、斎藤道三の孫・斎藤龍興に仕えるようになります。
幼いころから中国の天才軍師・諸葛孔明の兵法書を読んでいたそうやで
半兵衛は頭がいいだけではないぞ
武術に優れて剣術は皆伝の腕前じゃ
稲葉山城の乗っ取り
半兵衛の名を天下に知らしめた事件が「稲葉山城奪還」です。稲葉山城は主君・斎藤龍興の居城でしたが、半兵衛はこれを乗っ取りました。というのも主君・龍興は政治に無関心で酒におぼれており、半兵衛が織田信長の脅威を説明しても全く聞き入れなかったことが原因でした。
半兵衛は龍興から「色白で女みたいだ」とバカにされていたというぞ
半兵衛は「自分のことを認めてくれない主君が嫌だった」という説もある
半兵衛は主君の稲葉山城をわずか17人で奪還に成功しましたが、半兵衛は領地拡大や天下取りに興味がなかったため、城を乗っ取ったあとはすぐに龍興に返して斎藤家を出奔しています。
斎藤家を去った半兵衛は浅井長政に仕えたいわれているぞ
秀吉に仕える
半兵衛が斎藤家を去った後、織田信長は美濃攻めを行って斎藤家を滅ぼしました。また信長は半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったことを知っていたため、半兵衛を家臣にしたいと考えていました。そこで家臣の豊臣秀吉に半兵衛の勧誘を命じます。
稲葉山城は難攻不落の城と知られていたから
それを陥落させた半兵衛を信長公は家来にしたいと思ったんじゃろな
秀吉は「三顧の礼」でもって、山にこもっていた半兵衛を説得。これには半兵衛も感激し、秀吉の人柄に惹かれて、信長ではなく秀吉の家臣となります。
この三顧の礼はなかったという説もあるぞ
盟友黒田官兵衛を助ける
半兵衛が秀吉に仕えていたころ、信長は敵対していた浅井家、朝倉家と姉川の戦いを起こします。半兵衛は合戦を有利にすすめるため、浅井家の家臣を寝返らせることに成功。これにより織田軍は有利に合戦をすすめることができたといいます。
また信長が浅井長政の居城・小谷城を攻めたときには、長政の正室で信長の妹であるお市の方の救出方法を秀吉に提案したといいます。
信長と武田勝頼との合戦である長篠の戦いでも活躍したといわれているぞ
また半兵衛といえば黒田官兵衛との友情です。
中国攻め途中に信長の家臣・荒木村重が謀反を起こします。村重は居城の有岡城に立て籠ったため、官兵衛が説得しに行くことに。ところが官兵衛は村重に捕らえられ幽閉されてしまい、信長と連絡が取れなくなってしまいました。
これをみた信長は官兵衛も裏切ったのだと思い込み激怒。そこで信長は秀吉に人質にしていた官兵衛の長男・黒田長政を処刑するように命令。しかし、半兵衛は「官兵衛が裏切るはずはない」と考え、別の子ども首を信長に差し出して長政の命を救ったといいます。
半兵衛の嘘がバレたら
半兵衛だけでなく秀吉さんも切腹だっただろうなー
有岡城が陥落して牢屋からでてきた官兵衛はこれを知ると、半兵衛に対して大変感謝したといいます。
官兵衛が出てきたときにはすでに病気で亡くなっていたんじゃー
悲しいのー