今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れたことで有名やから
公家かぶれの愚将なイメージが強いな
信長に討たれた印象が強すぎるのかー
今川義元が本当に愚将だったのかみてみよう!!
今川義元の年表
義元はお家騒動に勝利して家督を相続していたんかー
金山を開発したり、検地を行ったりして国力増強をはかった
優れた武将なんじゃ
今川義元の相関図
義元は今川家を守るために、政略結婚を勧めて信玄や氏康と同盟を結んでいたのか
戦国時代では名門家は維持するのが大変じゃな、家康を人質にとっていたしのー
今川義元の誕生
今川義元は1519年、駿河(静岡県)に今川氏親の子として生まれました。義元は五男に生まれたため、京都の寺に預けられました。そこで僧の太原雪斎から教育を受けました。
幼い頃は今川家の家督を継ぐことはないと思っていたやろなー
義元の兄の二人が急死したため、今川家の重臣たちは正室の子である義元に家督を継がせようとしました。
ところが、今川家臣の福島氏が反対して義元の兄の「玄広恵探」を擁立してきました。義元は長期戦を恐れて、相模(神奈川県)の北条家に援助を要請し、恵探を一気に攻めこみます。すると攻め込まれた恵探は逃亡して自刃し、このお家騒動は二週間で決着がつきました。
このお家騒動を花倉の乱というぞ
義元殿は家督を継ぐと将軍足利義晴にならって「義元」と名乗ったんじゃ
生まれたのが後でも、正室の子だと偉いんだなー
東海一の弓取り!!
家督を継いだ義元は武田信虎の娘定恵院を正室に迎えて武田家と同盟を結びました。これは以前から同盟関係にあった北条氏綱との同盟を破ることを意味していました。そのため義元は氏綱と駿河東部をめぐってたびたび争いを起こしました。
この争いを、駿河東部にちなんで河東の乱というで
また駿河西部では織田信秀がたびたび三河(愛知県)へ侵攻してきたため、義元はこれに応戦。義元は三河の松平家を服従させ、三河にある織田家の砦も攻略して完全に三河を掌握しました。
これにより義元は三河、駿河、遠江(静岡県)の三ヶ国を治める大名へと成長します。
義元は三河を掌握したときに徳川家康を人質としたんや
そして織田信秀が亡くなると、義元は西に兵を進めるため東側の守りを固めようとしました。そこで北条氏康の娘早川殿を長男今川氏真の正室に迎え入れ、北条家と同盟を結びました。
武田家と北条家も政略結婚を行い、今川、武田、北条による甲相駿三国同盟が締結されました。
こうして東側には義元を脅かす存在はいなくなったため、尾張(愛知県)の織田家にたびたび侵攻するようになります。
義元が武田信玄と同盟を結んでいたとは!
義元殿だけでなく、北条家にも武田家にも同盟を結ぶメリットはあったんじゃ
同盟は利害関係がないと結ぶものではないのー
桶狭間の戦いで敗れる
守りを固めた義元は上洛するため尾張へ侵攻しました。この時4万もの大軍を引き連れていたと言われています。
今川軍は次々に織田家の砦を陥落することに成功。豪雨であったために桶狭間で休憩をとっていました。
義元はこのとき油断していただろうな
すると織田信長がわずか2000の兵で豪雨のなか桶狭間へ進軍。戦闘態勢でない今川軍は混乱に陥り、油断していた義元はあっけなく討ち取られてしまいました。
義元殿は運がなくて敗れてしもうたな
それくらい信長公の奇襲攻撃はすばらしいものなんじゃ
義元の軍師太原雪斎が亡くなってからうまくいかなくなった話もあるぞ
まとめ
今川義元は家柄、器量、教養と戦国武将に必要なものを兼ね備えていた優秀な武将でした。そのため、公家文化に精通し、お歯黒をつけ、薄化粧をしていたというのは江戸時代の人たちが後付けした話であると思います。
義元が大軍を率いていたにもかかわらず、わすかな軍勢の織田信長に討ち取られたことがとても衝撃的な出来事なのでしょう。
今川義元のイメージが変わったなー
桶狭間の戦いの後今川家は急速に衰退してしまったんじゃ
江戸時代にはいると、家康に取り立てられて高家に返り咲いたそうじゃ