佐久間盛政は柴田勝家の影に隠れてあまり有名ではないけど
合戦で活躍した武将だよな!
盛政はその豪勇から「鬼玄蕃」といわれるほどの武将だったんじゃよ
かなり強い武将なんやなー
それでは佐久間盛政の生涯を見てみよう!!
佐久間盛政の年表
初陣は六角義賢との観音寺城の戦いなんやなー
信長公が上洛するため京に侵攻途中に
六角家が応戦してきたんじゃよ
佐久間盛政の相関図
主君は信長ではなく、柴田勝家なんやなー
そうじゃなー
じゃから最期まで勝家殿に忠義を尽くして切腹したんじゃ
佐久間盛政の誕生
佐久間盛政は1554年、尾張(愛知県)に佐久間盛次の長男として生まれました。佐久間家は織田家の家臣であり、盛政の母親は織田家の重臣柴田勝家の姉でありました。さらに身長は182センチもある大男であったといわれています。
家系図から強そうな家系にうまれているね
盛政は豪傑の遺伝子を受け継いだんやなー
信長のもとで活躍!!
盛政は織田信長の上洛のため六角家征伐で初陣をかざると、越前(福井県)金ヶ崎の戦いで朝倉軍を攻め込み、見事に朝倉軍を撤退させます。さらに、六角義賢との野州河原の戦いに参戦して武功を挙げています。
その後盛政は柴田勝家に仕えるようになると、柴田軍の先鋒を任せられるようになります。また勝家が担当した越前は一揆がたびたびおこる地域でありました。
盛政は勝家からこの一揆の制圧を任せられると、めざましい武功をあげ、信長から感謝状を賜ったといいます。
さらに上杉謙信が織田家へ侵攻してきたときも、信長の命により謙信との合戦を繰り広げています。
信長公は軍神といわれた上杉謙信を恐れておったんじゃが
武功をあげていた盛政を信頼して対峙させたんじゃなー
順調だった盛政に異変がおきます。一族の佐久間信盛が石山本願寺をなかなか攻略できなかったことを理由に、信長は信盛を高野山に追放。盛政には関係のないことでしたが、忠義のあつい盛政は自主的に蟄居したといいます。
とはいえ蟄居はすぐにおわり、加賀(石川県)の一揆を平定すると加賀の半国を信長から与えられました。
加賀の半分とはいえもう半分には前田利家だったから
それほど信長が盛政のことを認めていたことがわかるなー
最期まで武将らしく
本能寺の変によって信長が討たれると、明智光秀を討ち取った豊臣秀吉と織田家の重臣勝家との間で対立が勃発。話し合いでは決着がつかず両者は賤ヶ岳で合戦することになり、盛政は主君勝家につきます。
最初こそ盛政は豊臣方の中川清秀を討ち取り、高山右近を敗走させるなど活躍をみせます。ところが、秀吉本隊に追い詰められ、盛政は取り押さえれてしまいました。
盛政は生け捕られ、秀吉から降伏して部下になるよう言い渡されます。
ところが盛政は、
「生を得れば貴方(秀吉)を討ちましょう。いっそ死罪を申しつけよ!!」
さらに、
「切腹も無用!!市中を引き回して磔にされるがよろしかろう!!」
と秀吉に言い放ちます。その後、京都で市中引き回しのうえ斬首されました。
引き回しのときには豪勇の大男を一目見ようと
たくさんの人が押し寄せたというよ
わしは盛政の武功を認めておったから
部下にしたかったんじゃが、盛政の意思は強かったんじゃ
まとめ
佐久間盛政は合戦で武功をあげて活躍し、また忠義のあつい戦国武将でした。ただ戦国の世では裏切りなどの損得を考えた生き方をしないといきていけない過酷な時代であったためか、忠義のあつい盛政は若くしてなくなってしまいました。
戦国時代で生き残るには一筋縄ではいかないんじゃ
時には巧みに人を利用することも必要なんじゃよ