森蘭丸は織田信長に仕えた美少年だけど
その兄・森長可が暴れん坊だったみたいだな
暴れすぎて、規則を破ることも多々あるが
信長殿に気に入られておったから罪には問われなかったぞ
それでは「鬼武蔵」こと森長可の破天荒ぶりをみていこう!
森長可の年表
関所を通るときは馬から降りないといけないけど
「長可は急いでいるから」
と関守を斬って強引に突破したらしいよ
この話をきいた信長殿は武蔵坊弁慶のようだなとだけいったんじゃ
長可殿のことを気に入っていたようじゃな
これ以来、「鬼武蔵」といわれるようになったみたい
森長可の相関図
長可は茶人としても活躍していて
津田宗及の茶会に呼ばれているよなー
書を好んで能筆だったんじゃ
猛将とは別の一面をもっておる
森長可の誕生
森長可は織田信長の家臣・森可成の次男として生まれました。弟には森蘭丸や森忠政がいます。
父・可成は「攻めの三左」といわれた優秀な武将でした。ところが、父と兄が戦死してしまったため、13歳にして家督を継承。同時に、金山城の城主となります。
森家は桶狭間より前から信長に仕えているぞ
暴れん坊・鬼武蔵
主君・織田信長が手を焼いていた長島一向一揆には織田信忠に従って出陣し、初陣を飾ります。そして、川の向こう側にいる一揆勢に突撃して27もの首を討ち取りました。
これが17歳の時かー
恐ろしい
また1582年、織田信長が武田家を滅ぼすために行った甲州征伐でのこと。森長可は先鋒を務めていましたが、「前進するな」と信長に命令されていたにも関わらず、速攻で鉄砲をぶち込んで勝手に交戦し始めました。
ここでも信長殿からのお咎めはなかったんじゃ
その後、織田軍はさらに攻め込み、高遠城を包囲します。またまた、長可は勝手な行動にでます。
城の屋根に登ると、天井を引き剥がし城内へ鉄砲の一斉射撃。本丸に突撃して、獅子奮迅の働きをみせます。織田本陣に戻ってきた長可が真っ赤なのをみて、織田信忠は驚きましたが、長可は「返り血ですから」と胸を張ったとか。
このときばかりは信長も長可の別行動について
書簡で注意しているよ
また、長可は戦だけの男ではありませんでした。地元の金山城周辺の発展のため、港や城下町の整備、祭りの開催を行なっています。さらに、内陸部での入手しづらい魚や塩の需要を見込んで専売制を敷いて、地元の商人に専売特権を与える見返りとして税収を得ています。
この専売制は江戸時代になっても引き継がれたよ
鬼武蔵の最期
甲州征伐の活躍により、長可は海津城20万石を与えられました。ところが、旧武田領のこの地には反織田勢力や武田の残党が生き残っており、新たな城主となった長可に対して蜂起しました。
もちろん長可が放っておくわけもなく、長可の部隊だけで2450もの首を討ち取ったといいます。
たった2日で一揆を鎮圧したんじゃよ
越後(新潟県)の上杉領へ出陣していたところ本能寺の変が起き、主君・織田信長が討たれてしまいます。
この反乱に乗じて、信濃(長野県)の国衆が一斉に長可に蜂起。ほぼ全員に裏切られた長可は、手足を出されないように人質を連れて脱出します。そして、脱出のメドがついたところで、人質全員を処刑してしまいました。
人質を処刑するのは当然ではあるな
長可は出浦昌相以外、全員に裏切られるって
どんだけ人望がないんだ
さらに、木曾義昌が長可の暗殺を企てていることを聞きつけると、この日に到着するという手紙を義昌に送っておいて、その前夜に城門を破壊して押し入ります。そして、義昌の息子を拘束して、暗殺の企みを封じ込みました。
すぐに力ずくで反乱を封じ込め
そんな戦国無双の鬼武蔵にも死は訪れます。1584年、豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧長久手の戦いが勃発。長可は豊臣軍として出陣しましたが、徳川軍による度重なる奇襲を受けて混乱に陥っていました。
状況を立ち直すべく、長可は白装束を羽織って出馬。ところが、徳川軍に取り囲まれてしまい、鉄砲で眉間を撃ち抜かれて即死してしまいました。享年27歳、あまりにも若すぎる「鬼武蔵」の死でした。
長可を討ち取ったのは水野勝成の部隊
水野勝成も猛将で知られているよ
鬼武蔵の首は1000の敵を討ち取ったに等しいぞ
まとめ
森長可は合戦で大暴れし、戦国無双の武将として名を残しました。
そんな長可も遺言を遺しており、跡継ぎや領土問題についてしっかり記載しています。長可は猛将で頭でっかちのイメージが強い武将ですが、内政面にも気を配る文武両道の武将でした。
27歳で亡くなったのはおしいのー
長可が愛用した槍・人間無骨は
「切れ味の良いこの槍の前には人間の骨など無に等しい」ということを表していて
森長可にぴったりの槍だな