高坂昌信は武田信玄に愛されて
出世した武将だな
農民から武将にまで上り詰めたんじゃ
わしと一緒じゃよ
それに歴史書も編纂していたみたい
それでは高坂昌信の生涯をみていこう
高坂昌信の年表
高坂昌信は武田家の軍学書と知られる「甲陽軍鑑」を執筆しているよ
甲陽軍鑑は20巻59章もあるんじゃ
江戸時代には武士に読まれて最大のベストセラーとなったぞ
高坂昌信の誕生
高坂昌信(春日虎綱)は1527年、百姓の春日大隈の次男として生まれました。昌信の生まれた春日氏はもとを辿れば清和天皇に行きつく、高貴な家柄。春日家は半農半士の暮らしで、普段は農民をしており、緊急事態には刀を取って武士となっていました。
昌信の幼名は春日源五郎で
高坂と名乗ったのは養子に入ってからじゃ
ところが、昌信は本物の武士になりたいと考えていました。そこで、昌信は家をでて今川、北条、上杉に出仕しようと試みます。どこの武家にもツテがないため跳ね返され、結局元通り家に戻ってきました。しかし、昌信が家を出ている間に兄は亡くなっており、田畑は姉婿のものとなっていたのです。
各地を放浪しているうちに田畑が継承されていたんだな
田畑は自分が継ぐはずだと考えていた昌信は番所(裁判所)へ訴えます。しかし、取りあえってもらえず、押し問答。そこを通りかかった武田信玄は昌信の美しい美貌に見惚れ、武田家への出仕を認めました。
信玄公には男色の嗜みがあったんじゃ
わしにはないぞ
厳しい周囲の目
昌信が信玄に仕えてから半年ほど経った頃、武田軍は信濃(長野県)の諏訪へ侵攻。信玄は出陣前に昌信を呼びつけ、元服させました。そして昌信には「虎綱」の名を授けられ、初陣を飾ります。
信玄は家臣に「虎」の字を与えていたんじゃ
ところが、贔屓されている昌信に対する武田家臣たちの目は厳しいものでした。信玄はこの空気を感じ取り、昌信が力を蓄えるのを待ちました。「昌信も周りに反発すれば、信玄の面目を潰すことになる」と考え、耐え続けます。これは昌信が16歳から24、5歳になるまで続きました。
周囲から「昌信を取り立てたのは信玄の見込み違い」
と悪口をいわれたみたい
昌信はずっと耐え続けたんじゃよ
しかし、周りからの悪口に耐え続け、実力をつけて認められるようになった昌信は御使番12人衆の1人に抜擢され、1552年には150騎の侍大将、1553年には小諸城の城代にまで出世しています。
御使番は戦場で伝令や敵軍への使者を務める役割だけでなく
自軍に有利になる判断が求められる立場でもあるよ
逃げ弾正!!
武田信玄が上杉謙信と争うようになると、昌信は最前線基地である海津城の城代に任命されます。昌信が城代に任命されて以降、上杉軍の海津城へ侵略を許したことはありません。
上杉謙信から城を守り抜いたのはすごすぎる
戦国三弾正として「槍弾正」の保科正俊、「攻め弾正」の真田幸隆、「逃げ弾正」の高坂昌信の名前が挙げられています。昌信の逃げ弾正というのは臆病者ですぐに逃げ出したのではなく、負け戦での撤退戦がうまかったということです。昌信は殿(軍の最後尾)を務め、損害を最小限にとどめながら撤退し、武田家に貢献しました。
武田信玄とはいえ、勝ち戦ばかりじゃないから
撤退することも大事なんだろうな
主君・武田信玄は将軍・足利義昭からの号令を受けて織田包囲網を形成。信玄は信長と同盟を結んでいる徳川家康に合戦を仕掛け、三方ヶ原の戦いが勃発します。信玄の圧倒的な指揮で徳川軍は蹴散らされ、家康は浜松城まで撤退。武田家臣は一気に浜松城まで攻めようとしましたが、昌信は織田信長が迎撃態勢を整えている可能性があるから危険が大きいと反対。信玄も昌信の意見に頷き、追撃を止めました。
昌信は戦場でも冷静に判断できる武将なんだな
主君・武田信玄が亡くなると、武田家の雲行きが一気に怪しくなります。「勝頼を頼む」との信玄の言葉を守るべく、昌信は変わらず武田家に忠誠を尽くします。ところが、武田の譜代は勝頼の側から遠ざけられ、若い衆が勝頼の周りに集まりました。
武田四天王の馬場信春も遠ざけられているぞ
1575年、長篠の戦いで織田徳川連合に大敗を喫し、武田勝頼は命からがら信濃まで逃げのびます。これを出迎えた昌信は用意した衣装に着替えさせて武具、旗指物を整えて見苦しくないように取り繕って館へ迎え入れました。
このことが
昌信の勝頼に対する最後の奉公じゃ
合戦後は信玄時代と同様に海津城を守っています。上杉家での家督争い(御館の乱)が起きた時には同盟関係にあった北条氏政からの要請を受けて越後にも出陣。ところが、その最中に亡くなってしまいました。
昌信が亡くなってから
たった4年ほどで武田家は滅亡してしまったんだ
まとめ
高坂昌信は武田信玄の側近として取り立てられて以降、異常なほどのスピードで出世した武将。そんな昌信と信玄の間にはこんな話が残っています。
武田信玄は男色家と知られ、昌信と関係を持っていました。
ところが、信玄は他の男に手を出して浮気してしまいます。これを知った昌信は怒り信玄と取り合わなくなってしまいました。
それでは困ると信玄は浮気釈明の手紙を昌信に送りつけて、仲を戻しました。
この手紙は現在も残っているよ