本願寺顕如は織田信長と10年以上にわたって戦って僧侶だな
本願寺は莫大な資産を築いておったからのー
僧侶でありながら武装して信長と戦い続けた本願寺顕如の生涯をみていこう!
本願寺顕如の年表
正親町天皇は経済的困窮で即位の式典をできなかったから、顕如を頼ったみたい
本願寺には朝廷が頼るほど
莫大な富があったんじゃな
本願寺顕如の相関図
本願寺は親鸞がはじめた浄土真宗の一派で
顕如の曽祖父・蓮如がはじめたものだな
蓮如は京都から追い出されて加賀(石川県)にいるときに
人々をまとめて教団を築き上げるようになったんじゃ
本願寺顕如の誕生
本願寺顕如は1543年、大坂に本願寺・第十代宗主である本願寺証如の長男として生まれました。
顕如が12歳のとき、父・証如が亡くなってしまったため、顕如はすぐに儀式を済ませて十一代目宗主の座につきます。
顕如は細川晴元の養女・如春尼と結婚したよ
この人の姉は武田信玄の正室なんだ、だから信玄と顕如は義兄弟!
信長と徹底抗戦!!
このように本願寺は政略結婚を行って、僧侶でありながら諸大名と関係を持っていました。また蓮如の頃、本願寺が勢力を拡大した加賀(石川県)では、本願寺の門徒と国人の合議制により国を治めていました。つまり、本願寺は大名のように国を治める側面を持っていました。
本願寺派の門徒は加賀だけじゃなく各地に散らばっていたんだ、
諸大名と関係が悪くなると、顕如は一向一揆を起こさせたんだ
将軍・足利義昭を上洛させて、天下統一を目指そうとしていた織田信長にとって、大坂にある本願寺は目障りな存在でした。
手始めに、信長は本願寺に対し将軍家再興の名目で畿内の寺社や有力者から資金を要求。顕如はこれを受けいれています。ところが、次なる信長の要求は本願寺の土地を明け渡せ、さもないと寺を破壊するというものでした。
信長殿は宣戦布告のための大義名分を探しておったんじゃー
合戦をするには大義名分が必要やもんな
要求を断った本願寺に対して、信長は軍を進めます。顕如は将軍・足利義昭をはじめ、武田信玄、朝倉義景、浅井長政などに協力を要請して織田包囲網を形成。さらに、顕如は各地の門徒たちに呼びかけて一向一揆を起こさせて信長に対抗しました。
各地で合戦が勃発したんじゃ
織田家臣団は戦に明け暮れておったわい
ところが武田信玄が亡くなり、包囲網に亀裂が入りはじめます。朝倉家や浅井家などが次々と信長によって滅ぼされ、本願寺も信長の兵糧攻めに力尽きます。こうして10年も続いた石山合戦は、顕如と信長の和睦により終結。
本願寺の門徒の中には信長に抗戦すべきという意見もあったみたいだけど
顕如はもう戦いたくなかったから紀伊に撤退したよ
静かな隠居生活
信長が本能寺の変で亡くなったのち、各地を転々とします。天下人・豊臣秀吉の計らいにより摂津(大阪府)に天満本願寺を建立。
戦の舞台となった石山本願寺は原因不明の出火で消えてしもうた
その跡地に秀吉殿は大坂城を建てられた
豊臣政権下で完全に権力を無くした本願寺は、秀吉の命令により大坂から京都に寺を移転させられます。このとき建立されたのが、現在にも残る西本願寺です。顕如は京都での本願寺再興を志しましたが、50歳で亡くなりました。
顕如が亡くなったあとは、長男・教如と三男・准如との内部争いが目立つようになって
教如は東本願寺を建立したよ
まとめ
本願寺顕如は10年にも渡って織田信長を苦しめた人物でした。顕如がいなければ信長の勢力拡大はもっとスムーズに進んでいたでしょう。
顕如は本願寺の最盛期を築いたけど、
秀吉によって力を落とした人物でもあるんやなー