
豊臣秀吉は晩年、キリスト教への迫害を行なって
26人もの人が殉教してしまったよ

キリシタンがはじめて迫害された事件じゃな
豊臣政権の暴走が始まった頃の話じゃ

キリスト教を迫害するきっかけとなった
サン=フェリペ号事件とはいったい!?
事件の背景
豊臣秀吉は主君・織田信長と同じようにキリスト教の布教を許していました。ところが、九州の大名である大村純忠が長崎をイエズス会に寄進しており、ポルトガル人は日本人を奴隷として売買していました。これを知った秀吉はキリスト教を脅威に感じるようになります。


「信徒たちが一揆を起こせば大変なことになる」と考えていたんだろうな


わしも信長公も浄土真宗の一向一揆に悩まされたからのー


領民を無理やりキリスト教に改宗させた。
そこで秀吉は1587年、バテレン追放令を発布。外国人宣教師の国外追放を命じ、キリスト教の布教を禁止しました。しかし、この時はキリスト教の信仰は禁止していません。


まだゆるい規制だったんだな
実際、秀吉は南蛮貿易による利益を優先していました。また、南蛮貿易を行うスペイン人やポルトガル人は布教と貿易がセットなっているため日本にとどまり、キリスト教を信仰する人も増え続けました。秀吉はこれらを禁止しようとはせず、貿易のために野放しにしていました。


このとき、日本にはキリスト教徒が20万人もいたんじゃよ
またこの頃、秀吉は明(中国)を征服するため、属国である朝鮮に軍を進めていました。ところが、朝鮮出兵が失敗。さらに豊臣秀頼が生まれたため、跡取り候補となっていた豊臣秀次に謀反の疑いをかけて切腹させています。秀吉が暴君となり始めている頃、サン=フェリペ号事件が勃発します。


秀吉の暴走は誰にもとめれないぞ


サン=フェリペ号事件
1596年、マニラ(フィリピン)からメキシコに向かうスペイン船が嵐に巻き込まれて、土佐(高知県)浦戸に漂着。土佐大名・長宗我部元親は乗組員を浦戸に収容し、元親から要請を受けた秀吉は五奉行の増田長盛を派遣します。


増田長盛と長宗我部元親にはかねてから関係があったようだよ
長盛は乗組員の名簿を作り、所持品を全て提出させました。そして、秀吉からの書状を告げます。
スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは京都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた。
これに対して船長のオランディアは世界地図を示して、
「スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるか」を語りました。
これに対して増田長盛は「なぜスペインがこれほど大きな国なのか」と問うと
スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり
と答えました。これを聞いた長盛はすぐさま秀吉に報告。秀吉はキリスト教を恐れるようになります。


これで秀吉は宣教師→布教→植民地化のルートを確認して
キリスト教への不信感を抱いたんだな


スペインは植民地の富を本国に送るために使用した。
(浦戸小学校)
事件後
サン=フェリペ号の漂着以降、秀吉はキリスト教による日本征服を恐れて、バテレン追放令につぐ禁教令を発布。秀吉の命を受けた石田三成は京都や大坂にいた宣教師ら26名を捕らえました。


内訳はフラシスコ会員が6人、イエズス会員が3人、日本人信徒が17人だよ
彼らは耳を切り落とされて市中引き回しにあい、長崎で処刑されることになります。当時長崎はキリシタンの町として栄えていたため、秀吉がキリスト教に寛大ではないことを示すのにうってつけの場所でした。


京都から長崎まで裸足で歩かせたんじゃ
そして、1597年に26人は磔の刑に処されました。キリスト教の信仰を理由に、日本の最高権力者が信者を処刑したのはこれが初めてで、この出来事は「二十六聖人の殉教」と呼ばれています。


刑場となった丘が
キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ていたそうだ


まとめ
サン=フェリペ号事件からなる一連の騒動は日本で生き残った宣教師・ルイス=フロイスなどによって日本よりもヨーロッパで広まっていきました。
この事件は秀吉が暴走していたというより、スペインが日本の征服を企んでいると口を滑らした乗組員のほうが悪いような気がします。


秀吉のやり方も残虐だけど、、、