豊臣秀長は豊臣秀吉の実弟やな
秀吉のようなカリスマ性はないけど、人望のあつい武将だな
秀長殿が長生きしていれば、
晩年の秀吉殿の失政を食い止められたやもしれんの
それだけに秀長の死は悔やまれるなー
それでは豊臣秀長の生涯をみていこう!
豊臣秀長の年表
織田信長が最大ピンチに陥った金ヶ崎の退き口では、
秀吉とともに殿(最後尾)を担当したんだよな
秀長殿は殿の中でも1番後ろを担当したから、
とても危険じゃったんじゃ
豊臣秀長の相関図
藤堂高虎は生涯に10回も主君を変えたけど
秀長には15年ほど仕え続けたんだよ
高虎は秀長殿のもとで築城の技術を学び
天下に知られる築城の名手となったんじゃな
豊臣秀長の誕生
豊臣秀長は1540年、竹阿弥と妻・仲(大政所)の子として誕生しました。兄は豊臣秀吉ですが、秀長が幼いうちに家を出ていたため、面識は少なかったといわれています。
農民として母や姉とともに暮らしていたころ、織田家内で功績を挙げて足軽組頭となっていた兄・秀吉が10数年ぶりに故郷に帰ってきました。秀吉は久々に再会した秀長に対して、自分の家臣になって欲しいと懇願。秀長は秀吉の家来となり、温厚で聡明な性格のためすぐに秀吉の部下たちと打ち解けたといいます。
秀長は秀吉の部下同士の間を取りもつ役回りに徹したんじゃ
秀吉の出世を手助け
秀吉の家臣となると、戦においても戦闘に参加することは少なく、もっぱら城の留守役をつとめて秀吉を補佐しました。秀吉が長浜城主になると、城代をつとめるなど大役を任せられるようになっていきます。
秀吉の代わりに長島一向一揆の鎮圧にも出陣しているよ
織田信長が秀吉に中国攻めを命じると、秀長はこれに同行。天空の城として有名な竹田城が陥落すると、秀長は城代に任命されています。秀長は秀吉とともに次々に中国地方の城を陥落させてゆきました。
三木城干し殺しという徹底的な兵糧攻めを思いついたのは、秀長だというよ
農民たちの追い詰め方をよくわかっているな
本能寺の変が起きると、中国大返しに同行し、山崎の戦いに出陣しています。その後も賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いなどにも参戦し、講和の際の交渉役の任務を担っていっています。
秀吉殿から統治の難しい紀伊(和歌山県)の領主も任せられているんじゃー
相当信頼しておったんじゃろな
豊臣政権ナンバー2
1585年、病に臥せってしまった秀吉の代わりに四国攻めの総大将として出陣。四国は土佐一介の大名であった長宗我部元親により統一されていました。
そこで秀長は四国を3方向から攻め込みわずか50日ほどで長宗我部元親を降伏させました。この功績が認められて、秀長は大和(奈良県)100万石の大名へと出世を果たしています。
大和は寺社勢力が強くて、治めにくい土地柄だったんじゃが
秀長殿はうまく統治したぞ
その後も秀吉に仕えて、九州攻めや小田原征伐に出陣し、兄の天下統一を見届けました。ところが、病で倒れ亡くなってしまいました。
秀長が亡くなった後、豊臣政権に不穏な空気が立ち込め始めました。秀吉は側近の千利休や甥の豊臣秀次を切腹させたり、野心をむき出しにして朝鮮出兵に出陣したりしました。もし秀長が長生きしていれば、豊臣家は徳川家に滅ぼされることはなかったでしょう。
秀長は秀吉が暴走しないようにブレーキ役を果たしていたんだなー
まとめ
豊臣秀長は兄・豊臣秀吉の出世をサポートした武将。秀吉の目の届かない所を秀長が対処することで、豊臣政権を維持していました。たらればで歴史を語ることはナンセンスですが、秀長が長生きしていれば豊臣政権はもっと長く継続していたと思います。
秀吉は農民の生まれだから生来の家臣がいないんだー
だから親戚に頼ったんだろな