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鰹のタタキの起源をつくった!妻に助けられて出世した山内一豊とは?

戦国武将
ひろ
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山内一豊は妻・千代のおかげで出世できたよくいわれているよなー

徳川家康
徳川家康

内助の功」というやつじゃな

しかし一豊はただの凡人ではなく、肝の座った一流の大名だったんじゃぞ

ひろ
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今回は知られざる山内一豊の顔をみていこう!

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山内一豊の年表

ひろ
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豊臣秀次切腹事件とは

豊臣秀吉には息子がいなかったから、跡継ぎを甥の秀次に指名していたんや

だけど、秀頼が生まれたことで、目障りになった秀次に謀反の疑いをかけて成敗したことやで

徳川家康
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このときに、秀次の宿老だった一豊も一緒に処刑されそうになったんじゃー

無罪を主張してなんとか逃れたぞ

山内一豊。普段、性格が穏やかで口数も少ないが、いざ合戦となると獰猛な荒武者に変貌する。(鉄山宗鈍賛)

山内一豊の相関図

ひろ
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一豊と千代は仲が良くておしどり夫婦だったみたい

それに一夫多妻が普通の戦国の世で、一豊は千代としか結婚しなかったよ

徳川家康
徳川家康

そのせいで、実の子は一人しかいなかったんじゃー

千代。一豊の正室。「見性院」や「まつ」といわれたりするが実名は定かではない。(土佐山内家宝物資料館所蔵)

山内一豊の誕生

山内一豊やまうちかずとよは1545年、尾張(愛知県)に山内盛豊の三男に生まれました。父・盛豊は織田信安に仕える重臣でしたが、織田信長の攻撃をうけて兄とともに亡くなってしまいました

父や兄が亡くなったことにより、山内家の家督を相続し、母や幼い兄弟とともに流浪の身となってしまいます。

ひろ
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織田信安織田信長とのお家騒動に巻き込まれてしまって失脚したんやなー

織田信長。信長は家督争いに勝利して織田家の当主となった。(三宝寺蔵)

妻のおかげで出世!?

各地を放浪しながら、一豊は様々な主君に仕えていました。最終的に、かつて父の宿敵であった織田信長の配下となります。そして姉川の戦いでは、豊臣秀吉の部隊の一員として初陣を飾ります。その3年後の刀根坂の戦いでは、朝倉軍と壮絶な戦いを繰り広げました。

ひろ
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一豊は刀根坂の戦いでは「絶対に手柄をあげる」という意気込みで合戦に挑んだみたい

敵将との一騎討ちでは顔に傷を負いながらも打ち倒したんだよ

合戦での活躍が認められ近江(滋賀県)に400石を与えられ、さらに生涯の伴侶・千代と結婚。その後、豊臣秀吉に従って中国攻めに出陣し、秀吉を感心させるほどの働きぶりをしたといわれています。

徳川家康
徳川家康

敵が槍でに向かって突いてきたから

素手で槍を握り返して追い返したんじゃ

1581年、織田信長が周辺大名に力を見せつけるため、京都で大規模な軍事パレードを行いました。これを京都馬揃えといい、一豊も参加を許されています。

一豊は貧しかったため、名馬を購入することができずにいました。そこで馬揃えが開催されることを知った妻・千代は夫・一豊ためにへそくりで名馬を購入。一豊の馬はパレードでよく目立ち、信長から一目置かれる存在となりました。

ひろ
ひろ

一豊は千代のおかけで、目立つことができたんやなー

いい奥さんだなー

千代が一豊にへそくりを渡して、名馬を買うように勧めている場面。
この話は創作ではないかといわれている。
(今古誠画)

出世がとまらない!!

本能寺の変により織田信長が亡くなると、一豊は豊臣秀吉に味方して柴田勝家滝川一益と対立。賤ヶ岳の戦い小牧長久手の戦いで功績をあげて、近江2万石の大名にまで出世を果たしました。このとき一豊は秀吉の甥・豊臣秀次の宿老となっています。

徳川家康
徳川家康

賤ヶ岳の戦いの前哨戦では、1番の槍の功績をあげたんじゃ

小田原征伐後、一豊は掛川(静岡県)5万石の大名となり、関東に転封された徳川家康の監視を担当しました。

秀吉が亡くなり、徳川家康は会津(福島県)の上杉領に侵攻。一豊は真っ先に家康に味方することを表明し、「勝利のためなら、居城・掛川城を家臣ごと献上します」と度肝を抜く発言をしました。これにより、東海道の諸大名は東軍につき、家康は関ヶ原の戦いで勝利しました。

ひろ
ひろ

全国の大名たちが、東軍と西軍のどっちについたらいいか迷っている中、

真っ先に東軍についた一豊はすごいな

関ヶ原の戦いでの功績が称えられ、一豊は土佐(高知県)20万石の大名にまで出世。ところが土佐の人々は旧領主・長宗我部への思い入れが強い人々であったため、たびたび反乱が起きてしまいました。そこで一豊は力づくで弾圧したり、常に5人の影武者を連れていたりと大変苦労したといいます

ひろ
ひろ

土佐の領民は一領具足という半農半士だったから強かったんだろうなー

長宗我部元親。「生死知らずの野武士」と言われるほど勇敢な武将。(絹本著色長宗我部元親像)

まとめ

山内一豊は妻・千代のおかげで土佐20万石の大名にまで出世できたといわれることが多い武将です。実際には、その豪胆さから合戦で武功をあげたり、主君に大胆な提案をしたりする肝の座った武将でもありました。

ひろ
ひろ

一豊は土佐を統治するとき、

領民に食中毒を心配して刺し身を食べることを禁止したみたい

そこで土佐の人々は刺し身の表面を炙って食べ始め、これがカツオのたたきの起源となったよ

山内家の家紋。この家紋をもとにして、幕末土佐藩の領民であった岩崎弥太郎が三菱財閥のマークを作成した。

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