山本勘助は武田信玄に仕えた天才軍師やな
最近までは架空の武将かと思われるほど謎に包まれていた武将や
勘助は軍師であるとともに城作りの名人でもあるんじゃ
勘助が築いたといわれる城は無数に存在するぞ
それでは天才軍師・山本勘助についてみていこう!!
山本勘助の年表
砥石崩れとは、戦国最強といわれた武田信玄が窮地に陥った戦いのことやで
信玄公の窮地を勘助が救ったんじゃなー
山本勘助の相関図
信玄が攻め滅ぼした諏訪の姫をどうしようかと武田家臣内で議論になったとき
勘助は「諏訪の姫を信玄の側室にすればよい。そうすれば武田家と諏訪の関係は良くなる」と信玄に結婚を勧めたんだよ
家臣の中には反対するものもいたんじゃが、
二人の間に生まれ子が武田勝頼なんじゃ
山本勘助の誕生
山本勘助は1493年、三河(愛知県)に生まれたといわれています。勘助は諸国を放浪しながら、兵法を極めていました。ところが、背が低く、手指や足が不自由であったため、40歳を過ぎても浪人のまま過ごしていました。
勘助は今川義元に仕えようとしたみたいやけど
義元は勘助の醜い外見や手足が不自由なことをみて仕官を断ったみたい
武田信玄に出仕!!
その後も勘助は各地を放浪し、1543年ついに運命の出会いを果たしました。まだ23歳だった武田信玄に腕を認められ仕え始めます。このときすでに、勘助は50歳だったといいます。
天才・武田信玄といっても、素性のわからない勘助を家臣にするかなー?
信玄公が「領地はどれだけほしいか?」と尋ねると
勘助は「少しで構わないので、働く場所をください」と答えたそうじゃ
信玄公はこの言葉を気に入ったんじゃろな
信玄に仕えて以来、勘助は情報収集力や天才的な戦術で武田家内で頭角を表し始めます。信玄が宿敵・村上義清と合戦した際、武田軍はかなり追い詰められていましたが、勘助の策により形勢逆転。勘助は足軽大将にまで取り立てられました。
村上義清は信玄公に2回も勝利した名将じゃな
信玄敗れたことで信濃(長野県)を追われた村上義清は上杉謙信を頼って越後(新潟県)へ亡命。これにより、武田信玄と上杉謙信の間で有名な川中島の戦いが勃発。
壮絶な合戦となった第4次川中島の戦いでは、妻女山に陣取った上杉謙信を攻撃するために「キツツキ戦法」を提案。「キツツキ戦法」はキツツキが木の反対側をつついて虫が木から這い出したところを狙うという動きをまねた戦法でした。
ところが軍神・上杉謙信はこの作戦を察知し、逆に武田軍に奇襲攻撃を仕掛けました。これにより、武田軍は総崩れとなり、責任を感じた勘助は単騎で上杉軍に突撃。最期は四方から体中を槍で突かれて亡くなりました。
勘助は天才的な軍師だったけど、上杉謙信の方が一枚上手だったんやなー
山本勘助とは一体!?
それでは、最近実在が証明された山本勘助に関する逸話をみていこう!
大河ドラマのおかげ!?
山本勘助の存在は江戸時代に書かれた甲陽軍艦にのみ登場し、それ以外の書物では記されていませんでした。ところが、1969年に放送された大河ドラマ「天と地」を見た視聴者が、自分の家にも武田信玄のサインがあると、それを図書館に持ち込みました。
そしてこの書物が本物であると判定され、その資料には「山本菅助」の名が記されていました。これにより武田信玄のもとに「やまもとかんすけ」という人物が存在したことが判明。
勘助の漢字が違うんやなー
さらに2008年には、群馬県で武田信玄が山本菅助に宛てた手紙が2通発見されており、その中では「作戦についてよく検討するように」と記載されています。
山本勘助が軍事的なポジションにいたことは間違いなさそうやな
ヤマカンの由来
あてずっぽうのことを「ヤマカン」といいますが、この言葉の由来はカンの鋭い「山本勘助」が由来といわれています。
山師が鉱山を掘り当てるときに、勘に頼っていたことから、
「山師のカン」、「ヤマカン」という言葉が生まれたという説もあるよ
まとめ
山本勘助は醜い見た目から各地を放浪していましたが、武田信玄に認められ天才軍師として名を馳せた武将。最期は自身が考え付いた作戦が失敗してしまい、合戦中に亡くなってしまいました。
勘助は浪人だったから合戦の軍議には参加せず、
信玄と裏で作戦会議をしていたみたい
だから「陰の軍師」呼ばれたそうだよ