
本多忠真は「どうする家康」で波岡一喜さんが演じている戦国武将ですね
戦国最強・本多忠勝の育ての親と言われています

本多家の者は武辺者ばかりじゃ
頼りになるぞ

今回は本多忠勝の育ての親・本多忠真について迫ってみましょう!!
本多忠真の誕生
本多忠真は1531年または1534年に三河に本多忠豊の次男として誕生しました。兄は本多忠勝の父の本多忠高です。
本多家は古くから松平家に仕えており、父の本多忠豊も松平家に使えていました。


本多忠真や忠勝の生まれた本多家は
徳川宗家に使える最古参の家臣と言われていますね
戦国最強・本多忠勝を育てる
主君の松平家は巨大な織田と今川に挟まれており、この2つの家の戦いの安祥合戦に否応無しに巻き込れます。
1545年の第二次安祥合戦では、織田信秀の軍勢に挟まれてしまった松平広忠を逃すために父の本多忠豊が討ち死にしてしまいました。さらに、1549年の第三次安祥合戦では、兄の本多忠高が敵陣に深く入り込みすぎたために討ち死にしてしまいました。


大河ドラマで、本多家は戦で討ち死にするもの
と言われていた理由がわかりますね
本多忠真は合戦により父と兄を亡くしたため、兄の子の本多忠勝を引き取って育てることになります。忠真は忠勝に対して、読み書きから槍の稽古に至るまで、幅広く教えこんだといわれています。


忠勝はわずか2歳で父親を亡くしたから
忠真は本当に父親のような存在だったじゃろな
決死の三方ヶ原の戦い!!
1572年、武田信玄は西上作戦を実施し、徳川家康の浜松城に侵攻。若き徳川家康は武田信玄に三方ヶ原で戦いを挑んだが、無惨にも惨敗を喫してしまいます。そのため、徳川軍は急いで撤退戦に切り替えました。
そのときに、撤退戦の最後尾の殿を務めたのが本多忠真でした。


こんな負け戦で、殿を務めたら絶対に討ち取られてしまうのに、、、
本多忠真は武田軍の勢いを目の当たりにし、このままでは主君・徳川家康の命が危ういと感じ、「ここから後ろへは一歩も退かぬ」と言って、武田軍に斬り込んで討ち死にしてしまいます。
これにより家康はなんとか浜松城まで帰還することができました。


わしは家臣たちに生かさておるんじゃ
本多忠真は本当に酒好きだったのか?
大河ドラマでは、本多忠真が酒好きの武将として描かれています。しかし、忠真が酒好きという史料は確認されません。
ただ、戦国武将の多くは飲酒を好むものが多くいたと言われており、あの上杉謙信も酒を好んでいたと言われています。


上杉謙信はお酒を飲みすぎてなくなったとも言われていますね


合戦や軍議の際に酒を飲むことも普通のことなんじゃ
また、本多忠勝の息子の本多忠朝はその槍捌きぶりに家康が「さすが忠勝の息子よ」と称えられいました。しかし、大坂の冬の陣で酒を飲みすぎて、敗北してしまいます。次の大坂夏の陣では、汚名返上のために奮闘しましたが、毛利勝永の軍に討ち取られてしまいました。忠朝は死に際、「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言を遺したといわれています。


忠朝は「酒封じの神」として祀られておるぞ


このような人物がいたため
本多忠真は酒飲みの武将として描かれているのかもしれませんね
まとめ
本多忠真は父や兄と同じく、合戦で討ち死にして亡くなってしまいました。しかし、大河ドラマからもわかるように主君を守って討ち死にすることを本望としているように感じます。
また、忠真の実の子・本多菊丸は家康を援護して浜松城まで送り届けました。ところが、父を三河に葬った後に出奔して出家してしまいます。
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