織田信長の父・織田信秀は有名だけど
その生涯はあまり知られていないね
信秀殿は尾張の虎と称され
下級武士であった織田家を引き上げた人物じゃ
結構すごい人なんだなー
それでは織田信秀の生涯をみていこう!
織田信秀の相関図
信秀は子どもが多くて、信長は家督争いの末に当主となっているなー
織田家には子孫が多く、江戸以降も生き延びたんじゃよ
織田信秀の誕生
織田信秀は1511年、尾張(愛知県)に織田信定の長男として誕生しました。この頃、室町幕府の権力は弱まり、尾張の守護であった斯波氏も衰退していました。そこで、守護代であった織田家が台頭し始めます。信秀の父・信定は津島湊を築いて日本有数の貿易港とし、盤石な経済基盤を築きあげました。
まだまだ織田家は下級武士に過ぎなかったんだなー
尾張の虎!!
信秀は1526年頃に家督を譲り受け、勢力拡大に力を注ぎ始めました。1538年には今川家の支城である那古野城を奪還し、その後古渡城を築城。さらに熱田神宮の門前町も手中に収めて、経済基盤も固めてゆきます。
この頃に織田信長公が生まれたんじゃ
また経済的に余裕がでてきたため、朝廷や幕府にも自身の売り込みを行いました。朝廷には莫大な献金を行い、13代将軍足利義輝にも謁見しています。信秀は織田家の地位を着々と引き上げ、守護の斯波氏をも凌ぐ強さを持っていました。
信秀も経済に力を入れて国を強くしようとしたんだなー
勢力に陰り
尾張で勢力を拡大していた信秀でしたが、周辺には有力大名がたくさんいました。美濃(岐阜県)の斎藤道三、駿河(静岡県)の今川義元、三河(愛知県)の松平清康などです。徳川家康の祖父である松平清康は三河を統一し、織田領へ何度も侵攻していました。そして、斎藤道三と手を組んで、信秀の弟・織田信光が守る守山城へ侵攻。
ところが、松平清康が家臣の裏切りに遭い、斬首されてしまいます。信秀はこの混乱に乗じて、三河の城を奪い取り勢力を維持します。その後、松平家は今川義元へ人質として竹千代(徳川家康)を差し出す際に、信秀は竹千代を誘拐しています。
松平清康は陣中で家臣に斬られてしまったんだよな
また、信秀は今川義元に対抗するため、これまで争っていた斎藤道三と和睦を結ぶことにしました。これが有名な織田信長と道三の娘・濃姫を政略結婚です。しかし、これ以降信秀は病に伏せるようになってしまい、居城としていた末森城で亡くなってしまいました。
信秀殿の葬式は盛大なもので、僧侶300人が集まったんじゃ
またこのときに信長殿が灰を投げたのは有名じゃな
まとめ
織田信秀は父・織田信定から受け継いだ経済基盤をもとに勢力を拡大した戦国武将。ところが、室町時代の守護の形を引き継いでいたため、そこまで勢力拡大に意欲的ではありませんでした。信長は信秀のこうした様子を反面教師として勢力拡大したのでしょうか?
信秀は尾張内の反乱分子を粛清することは少なかったみたいだしなー
信長と違うタイプの戦国武将だな