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石田三成はなぜ好き嫌いが分かれるのか?

戦国小話
ひろ
ひろ

天下分け目の関ヶ原の戦いを起こした石田三成

三成を嫌った武将は数多くいるけど、親交の深かった武将もたくさんいるよ

豊臣秀吉
豊臣秀吉

左吉(三成)は合戦では活躍せず

内政面で手腕を奮った武将じゃ

こんなに好き嫌いが分かれる人物は珍しいの

ひろ
ひろ

今回は石田三成のことを好きな武将と嫌いな武将に集まってもらったよ

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石田三成を好きな武将の主張

直江兼続
直江兼続

三成殿は義を貫いた立派な武将である

太閤殿下亡き後、家康殿は禁止されていた大名間の政略結婚や上杉家に謀反の疑いをかけたりしてきたんじゃ

わしと三成殿はともに家康殿を封じ込めようとしたことで、関ヶ原の戦いが勃発したぞ

上杉景勝豊臣秀吉に従ったことで、直江兼続は豊臣方の取次役である石田三成と接する機会が多く、親交は深いものでした。三成と兼続はともに「」を重んじたため、うまがあったといわれています

直江兼続
直江兼続

わしと三成殿で二手にわかれて徳川領に攻め込めば

勝利できるとおもったんじゃが失敗してしもうた

島左近
島左近

三成様は家臣のことを慮ることができるよい主君でもあるぞ

三成様自身の所領が4万石にも関わらず、私に2万石も与えてくれたんじゃ

島左近筒井順慶に仕えていたが、筒井家の改易と同時に放浪していました。三成は左近の腕前を知っていたため、熱心に家臣となるように頼みこみました。自身の領土の半分を家臣に差し出すことは破格の待遇です。

ひろ
ひろ

島左近は「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城」といわれるほどの武将だよ

大谷吉継
大谷吉継

三成は仕事はできても融通のきかない武将といわれているが、それは違うぞ

太閤から茶の湯に招かれた際、回し飲みをしていた茶碗に難病を患っていたわしの膿がはいってしまったことがあったんじゃ

他の大名たちは嫌がって飲もうとはしなかったが、三成だけは飲みほしてくれたんじゃ

それ以来、わしは三成とともに戦うことを決めたぞ

大谷吉継は石田三成の行動に心を打たれて以降、三成を支え続けた武将です。関ヶ原の戦いでは三成には人望がなく、徳川家康のほうが戦略や人望など何もかも勝ると考えたため、東軍につこうとしました。ところが、三成の度重なる説得から、西軍の武将となりました。

大谷吉継
大谷吉継

わしの意見に耳をかさない三成は融通がきかないといわれても仕方ないか、、、

ひろ
ひろ

ここで、佐竹義宣からのお便りを紹介するよ

わしは石田三成が死んでは生き甲斐が亡くなる

三成とともに関ヶ原の戦いに出陣したかったんじゃが、父・佐竹義重の反対にあって叶わなかった

無念じゃ

佐竹義宣は茨城県の大名。父・佐竹義重は宿敵・北条家との戦いで一振りで七人を切り倒したことで有名。義宣は豊臣方の取次役である三成と親交が深く、関ヶ原の戦いでは西軍に属そうとしました。ところが、隠居したものの発言力のある父に反対されて出陣できませんでした。戦後、徳川家康のもとへ謝罪しに出向くと、「佐竹義宣ほどの律義者を見たことがない」と評価されました。

ひろ
ひろ

関ヶ原の戦いで家康に対抗したから、三成は江戸時代悪人として描かれることが多かったみたい

だから、三成嫌いのイメージがあるけど、実際には三成と仲良かった武将はたくさんいるんだな

石田三成。豊臣秀吉に三杯の茶でもてなした話から、三成は気がきく人物だったかもしれない。(東京大学史料編纂所所蔵)

石田三成を嫌いな武将の主張

加藤清正
加藤清正

三成殿下との取り次役の立場を利用してよく告げ口をするんじゃ

そのせいでわしは謹慎となったんじゃ

武断派大名筆頭の加藤清正清正は合戦で活躍して次々と武功を挙げていたにも関わらず、三成は出陣せず内政面のことばかりに目を向けていました。このことから、清正などの武断派武将は三成に不満を持つようになります。

そして、三成との溝が深まったのは、朝鮮出兵の際、日本軍は優勢であったにも関わらず、三成は秀吉に劣勢と伝えたことが原因といわれています。

加藤清正
加藤清正

武将なのに合戦で活躍せんとは何事じゃ

しかも、殿下のお側にいるなんて

小早川秀秋
小早川秀秋

三成君は本当に厳しい人だよ

僕がちょっと合戦で失敗したからって秀吉様に告げ口するんだよ

そのせいで領地を没収されそうになったよ

小早川秀秋朝鮮出兵の際に大将でありながら、自ら刀をもって戦うという失態を犯したしまいました。これを聞いた三成は秀吉に告げ口。秀吉は秀秋から領地を没収しようとするも、徳川家康に助けてもらい、没収されずにすみました。このことを恩に感じた秀秋は関ヶ原の戦いで三成を裏切ることになります。

福島正則
福島正則

わしは三成とは完全にうまがあわん

そこで、殿下や前田利家様が亡くなったあとに

三成の屋敷を襲撃してやったぞ

加藤清正の盟友・福島正則。正則と三成の性格は真逆で常に対立していました。関ヶ原の戦い後、捕らえられた三成をみた正則は惨めな姿をみてここぞとばかりに罵りました。しかし、黒田長政は真っ直ぐに豊臣家を思った三成に敬意を示し、自身の陣羽織をかけたといいます。これにはさすがの正則も心を打たれたといいます。

福島正則
福島正則

わしは、大坂の陣にも出陣することを禁止され、豊臣家が滅びるのを見ることしかできなかったんじゃ

その後は幕府から難癖をつけられて改易されてしもうた

ひろ
ひろ

ここで、細川忠興からの怒りのお便りを紹介するよ

石田三成はわしの愛するガラシャを殺害した張本人じゃ

許してはおけぬ

加藤清正と同じ武断派の細川忠興。忠興は妻・ガラシャを驚くほどに愛したことで有名な武将です。そのため、関ヶ原の戦いの前哨戦で三成の軍が忠興不在の細川邸に攻めこみ、追い詰められたガラシャは自害して果ててしまいました。ガラシャへの執着心の強い忠興は、三成への怒りを顕にします。関ヶ原の戦いでは、三成本隊と戦闘し首級を136もあげたといいます。

ひろ
ひろ

武断派の大名の多くは江戸時代に徳川家に煙たがれて、改易されてしまったよ

三成と仲良くしていれば、関ヶ原の戦いでも西軍の将となって豊臣に忠誠を尽くせたのにな

加藤清正。関ヶ原の戦い後、豊臣秀頼と徳川家康の会見に尽力した。(勧持院)

豊臣秀吉の考え

豊臣政権下では石田三成小西行長など内政面で手腕を奮っていた文治派加藤清正福島正則などの合戦で武功をあげる武断派という派閥がありました。豊臣秀吉による天下統一が進められていくにつれて、合戦は激減してゆきます。そのせいで文治派が幅を利かせるようになり、武断派の不満は膨れあがってゆきました。

主君・豊臣秀吉が亡くなると、武断派は三成を襲撃することを画策。豊臣政権で大きな力をもっていた前田利家も亡くなると、武断派七将は石田三成邸を襲撃島左近などの助けにより三成は徳川家康邸に逃げ込んで助かるものの、騒ぎを起こしたとして家康から蟄居を命じられてしまいました

ひろ
ひろ

家康は事件の仲裁をすることで、武断派の大名と接点を持って

関ヶ原の戦いで東軍に勧誘したんだな

豊臣秀吉
豊臣秀吉

左吉(三成)には小田原征伐の際に

断然有利な忍城攻めで武功を挙げるチャンスを与えたにも関わらず、破れてしもうたんじゃ

戦には向いていないから、左吉の力の発揮できる場で仕事をさせていたら

豊臣家内で対立が起こってしもうたのー

豊臣秀吉。農民から天下人まで上り詰めたが、晩年の失政が目立つ。(高台院)

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