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実はこうだったのか!?巌流島の戦いの真実!!

戦国小話
ひろ
ひろ

宮本武蔵佐々木小次郎巌流島で決闘することになったけど

この戦いは謎が多いよね

豊臣秀吉
豊臣秀吉

有名な戦いになるほど話が盛られて

真実とは全く異なる話になってしまうからの

ひろ
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今回は謎多き

巌流島の戦い」を検証していくよ

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よく知られている巌流島の戦い

巌流島の戦いが起こった理由

ひろ
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そもそも宮本武蔵と佐々木小次郎はどうして巌流島で戦うことになったのだろう?

決闘の原因は宮本武蔵と佐々木小次郎の弟子たちによる口論から始まりました。佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を設立して、小倉藩の指南役を務めていました。そこに、二天一流を創設した宮本武蔵が新たな指南役として加わります。

2人は同じ剣術指導者で剣の腕が立つということで、弟子たちの間で争いが起こるようになってしまいます。この争いを鎮めるべく、2人は決闘することになったのでした。

ひろ
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小倉藩の藩主だった細川忠興はかつて佐々木家が反乱を起こしたことを危惧していて

武蔵に討ち取られせたという説もあるよ

細川忠興。小倉藩藩主。非常に気が短いことで有名。(永青文庫蔵)

通説の巌流島の戦い

1612年4月13日、2人は巌流島で決闘。ところが、武蔵は決闘の時間になっても一向に現れません。その後、決闘の時間に遅刻してきた武蔵はイライラして冷静さを失っている小次郎を、船のオールで一撃で倒しました。これがよく知られた通説です。

ひろ
ひろ

武蔵は人を殺すことを嫌っていたから

決闘では刀を使わずに木刀を使用していて

今回は船のオールだったよ

宮本武蔵。雷よりも速いスピードで小次郎を倒した。(wikipedia)

巌流島の戦いの真実

ひろ
ひろ

創作を取り除いた、本当の巌流島の戦いをみてみよう

通説通り、弟子同士の諍いから誰の邪魔も入らない巌流島で決闘することになりました。

決闘当日、小次郎は1人で島へ向おうとしますが、地元の者に慌てて止められます。不思議に思った小次郎が訳を聞くと、武蔵は大勢の弟子とともに島へ渡ったようです。これを聞いた小次郎は「行くと約束した以上、行かねば武士の恥。もし大勢で私を討とうというなら、武蔵の恥だ」といって、島へ渡りました。

ひろ
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小次郎は立派な武士だなー

豊臣秀吉
豊臣秀吉

武蔵は遅刻しておらんの

島へ渡った小次郎は無惨にも武蔵や4人の弟子たちによって殺されました。一方、武蔵は小次郎の弟子たちからの報復を恐れて逃亡。門司城代であった沼田延元ぬまたのべもとに助けてもらい、無事逃げることができたようです。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

武蔵の逃げ足はルパンよりもはやいぞ

また決闘当時、武蔵は20代の若者でしたが小次郎は60近い老人だったともいわれています。つまり、武蔵たちは老人の小次郎を大勢でなぶり殺したことになり、恥知らずもいいところです。そのため武蔵が後に書き上げた五輪書には巌流島の戦いに関する話は一切登場しません

ひろ
ひろ

武蔵自身、巌流島の戦いのことを恥だと思っていたのかもしれないな

佐々木小次郎。小次郎が存命中、「佐々木」と名乗ったことはない。(歌川国芳)

巌流島の名前の由来

決闘が行われた巌流島はもともと「舟島ふなじま」という名前でした。決闘の後、小次郎に感じ入った地元の人々が、舟島に墓を作って菩提を弔いました。そして、小次郎の流派が巌流といわれていたことから、舟島を巌流島と名付けたそうです。

ひろ
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島の名前が勝者ではなく敗者に由来しているのは

武蔵が卑怯な手を使ったからだろうな

巌流島の戦い。戦後には住んでいるものもいたが、1973年に無人島に戻った。(wikipedia)

まとめ

1940年に吉川英治が「宮本武蔵」という連載小説を刊行して以来、巌流島の戦いは全国的な知名度のある戦いとなりました。そのときに、武蔵が決闘に遅刻してきたという話が創作され、全国に広まったといわれています。とはいえ、実際に起きた詳しいことはわかっていません。

ひろ
ひろ

小説によって宮本武蔵と佐々木小次郎が一躍有名となったんだな

コメント

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