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ピンチになるとすぐに切腹!?実はネガティブな徳川家康とは?

戦国小話
ひろ
ひろ

徳川家康はピンチになるとすぐに切腹を切り出す臆病者だったみたいやな

織田信長
織田信長

何回も何回も切腹しようとしたからのー

ひろ
ひろ

まさに我慢の末、掴み取った天下!

天下人・徳川家康の逸話についてみていこう!

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未来がないと思って

1560年、家康が三河(愛知県)の小勢力で今川家の家臣だった頃、織田信長今川義元を討ち取る桶狭間の戦いが勃発。家康とっては今川家からの独立を果たすきっかけとなった重要な合戦でした

ところが、家康は義元が討たれのを聞くと、松平家の寺へ逃亡。そして、ここで切腹するといい出しました。今川義元亡き後、松平家の発展はないと考えたのでしょか

ひろ
ひろ

家康はこのあと織田信長と同盟を結んで、順調に勢力を拡大していくなー

桶狭間の戦い。今川義元は討ち取られる寸前、織田方の毛利新介の指を食いちぎるという武将魂を発揮している。(歌川豊宣画)

明智の軍を恐れて

天下人となった織田信長明智光秀が討ち取る本能寺の変が京都で起こりました。この時、家康は大坂に少数の家臣を引き連れて見物に来ていました。信長の横死を知った家康は、明智の軍勢に討ち取られることを恐れて切腹といい出します。

パニックになった家康を本多忠勝井伊直政などの重臣が思いとどまらせています。その後、伊賀越えを経て領国に帰還しました。

織田信長
織田信長

本能寺の変後の反乱に乗じて、

家康は旧武田領で勢力を拡大したんじゃ

本能寺の変。本能寺の変の黒幕は徳川家康と言われているが、詳細は不明。(本能寺焼討之図)

真田幸村に追い詰められて

江戸幕府を開き征夷大将軍となった徳川家康は天下統一を成し遂げるため、大坂の陣を起こしました。冬の陣での和睦で、大坂城の堀を埋め立て有利な状況となった徳川軍。ところが、真田幸村の猛攻により徳川本陣は危機に陥ってしまいました。なんと家康の旗印が倒されてしまったのです

追いつめられた家康はまたも切腹するといい出しましたが、もう少しで天下統一を成し遂げられると考えて、切腹を思いとどまったといいます。

ひろ
ひろ

ここで家康が切腹していたら時代は大きく変わっていたやろな

真田幸村。豊臣秀頼とともに大坂城を脱出したという逸話が残っている。(上田市立博物館所蔵)

大敗したけど、、、

上記のように徳川家康は何度も切腹しようとしましたが、武田信玄に大敗を喫した三方ヶ原の戦いでは切腹を切り出すことはありませんでした。

家康なら切腹すると言い出しそうですが、切腹と言わなかったのは、あまりの恐怖に脱糞してしまったためです。本来切腹とは武士の潔い行為ですが、脱糞した状態で切腹すると末代までの恥と考えたのではないでしょうか。

ひろ
ひろ

脱糞したことを隠そうとしたけど、家臣の大久保忠世にばれてしまったみたい

徳川家康。三方ヶ原の戦いの後、敗戦での恐怖を忘れないように家臣に描かせた。(徳川美術館所蔵)

コメント

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