黒田長政は加藤清正や福島正則と同じで武断派の大名だったけど
文治派の石田三成に恩を感じていたんだ
武断派と文治派には亀裂が入っておったんじゃがなー
どうして黒田長政が石田三成に恩を感じていたのか?
その理由をみていこう!
黒田長政とは?
黒田長政は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の長男。父と同じく、豊臣秀吉に仕えて、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いで奮戦しています。秀吉が亡くなると、徳川家康に従って小早川秀秋の裏切り工作に尽力しています。
長政は父・官兵衛の血をしっかりひいていて
交渉がうまかったんだよ
関ヶ原の戦い後
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の間で関ヶ原の戦いが勃発。加藤清正や福島正則などの武断派は石田三成を嫌って、家康に従っていました。長政は清正らとの関係を重視して、東軍に属します。
徳川家康は長政に接近して
政略結婚を進めているよ
関ヶ原の合戦後、石田三成は捕らえられて晒し者にされていました。そこへ、石田三成のことを嫌っている福島正則がやってきて、ここぞとばかりに三成を罵りました。
とっとと腹を切ればええのによ
見苦しくないのか
これに対して三成は冷静に受け答えし、逆に福島正則を煽っていました。
あの世で秀吉様にお前が家康に味方したことを報告してやろう
そこへ徳川家康に味方した黒田長政がやってきました。
あっ長政!
長政は惨めな三成をみると、自分の陣羽織を三成に着せて
なんと言って良いものか、こんな結末になってしまったことは不幸なことです
と声をかけて、東軍の武将が三成を蔑む中、敬意を払いました。
長政の厚い想いに三成は思わず涙を流したといいます。
長政。。。
でもどうして、長政は三成に敬意を払ったんだろうか?
人生最大のピンチを三成が、、、
時は戻って、関ヶ原の戦いから22年前の1578年。
織田信長の家臣であった荒木村重は謀反を起こし有岡城に立て籠りました。これを説得すべく、長政の父・黒田官兵衛は単身で城に乗り込みます。ところが、官兵衛は村重に捕らえられて幽閉されてしまいます。
官兵衛と村重は懇意の仲だったみたい
信長はなかなか帰ってこない官兵衛が村重と一緒に謀反を起こしたのではないかと疑いをかけます。そして、豊臣秀吉に官兵衛の長男・松寿丸を処刑するように命じます。
しかし、秀吉は官兵衛が裏切るはずはないと考えて竹中半兵衛に相談。事情を知った半兵衛は松寿丸を匿って、全く別の少年の首を証拠として提出しました。
半兵衛と官兵衛はともにわしに仕えていた軍師じゃ
とはいえ、全く別の少年では顔が明らかに違い、誤魔化せるわけもありません。
官兵衛を信じていて
裏で松寿丸を助けた人がもう1人いるなー
それが「石田三成」だ
石田三成は届けられた首をみて、別人だと思いつつも松寿丸を匿うため、取次を行ったといいます。
この松寿丸こそ後の黒田長政であり、長政はこのことを非常に恩に感じていたのでした。
それで、関ヶ原の戦い後
長政は三成に敬意を払ったのか
まとめ
武断派と文治派で考えは全く違って敵同士となってしまいました。とはいえ黒田長政は石田三成の義を深く慮り、武士として、人としての情けをかけました。
黒田長政は立派な武士だな